「自分の味方はたくさんいる。人以外にもね」の話

「この香りは私の味方なんだ」
 老人が淹れてくれたのは、フランスで古くからつくられている紅茶らしい。名前を教えてくれたけど、私にはうまく聞き取れなかったのであいまいにうなずく。
「味方っていうのは?」
「私にはやりたいことがある。世界中のいろんな香りをコレクションしたい。外国の町を歩きながら、新しい香りに出会えるとワクワクするよ。だけどね、たまにその気持ちがしぼんでしまうことがある。特に疲れている時にはね」
 仕事がうまくいかなかったり、パートナーとケンカしたり。やりたいことがあるなら言い訳せずにやれよっていうのは、そのとおりだ。それでも子どもが泣いていたら、香りを探すよりも子どもの話を聞くのが優先になる。
「時間が空けばあくほど、もう一度走り始めるには体力がいる。自転車をこぐのと同じようにね。こがないと進まないのは分かってるのに、それでも始められない時。そういう時に手助けしてくれる味方が、私にとってはこの香りなんだ」
 老人が淹れてくれた紅茶の香りに集中する。甘いような爽やかなような。花粉症もちでいつも鼻が詰まっている自分には、香りはあまり響いてこない。老人の顔を見上げると、彼は深呼吸するようにして紅茶の香りを味わっていた。
「ああ、ペンシャープナーみたいなものですかね」
 作家の筆が止まった時、書きたい気持ちを高めてくれる言葉や作品のことを、そう呼んだ気がする。でも今は、文章はキーボードで打つことが多いから、もうペンを研ぐことはないのかもしれない。
「そうだね、そういう表現は初めて聞いたけど、言いたいことはよく分かるよ」
 自分を鼓舞してくれるもの、勇気をくれた言葉、創りたい気持ちを後押ししてくれるもの。自分の心を動かしてくれたものをとにかく集めておくんだと老人は言った。
「自分だけの宝箱にしまうみたいにね。でも一番の宝物は、その箱につまっているもののさらに奥にあるんだ」
 老人は自分の胸を右の拳で軽く叩きながら、自分の味方になってくれるものをたくさん集めるといい、と言った。

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