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フランスで会った女性が言う「不安な気持ちが本当は宝物だったこと」の話

 フランスの僧院に一人暮らしをすることになった私は、ちょっと誇らしい気持ちになった。フランスのアーティスト・イン・レジデンスのプログラムは条件が良く、地方の歴史的施設に滞在しながらアート制作をするのだけど、渡航費も制作報酬も出るのに、何かをしなければいけないような強制感がまったくなかった。展示発表の義務みたいなものもなく、逆に言えば自分で動かない限り何も実績を残せないところではあった。
 フランスのぬるさなのかなと思ったら、スタッフをしていたフランス人も「ここは仕事としては結構のんびりだよー」と言ってたので、どうやら私が受かった場所が割とのんびりだったようだ。

 戦時中には病院にも使われていたというかなり巨大な僧院に、事務所や宿泊スペースがあり、夜には誰もいなくなるので私一人になった。以前、スペイン人の女性アーティストが怖くなって一週間で逃げ出したという話を聞いた。
「手遅れになる前に言ってくれ。他の場所を用意するから」というのが、初日にディレクターさんから説明されたことだった。
 私は割と一人が好きなほうなのだけど、夜中に扉がドタバタする音が聞こえたり、風の音が強くなったりするのはすごく怖かったので、夜は部屋からは一歩も出なかった。幸い、初夏の北フランスは夜遅くまで明るかったので、私自身は最後まで逃げ出さずに済んだ。

 ベルギーに近い僧院には、ベルギーからの観光客もよく来ていた。ちょうどサッカーワールドカップで日本とベルギーが戦った後だったので、その時にはやたらと「いい試合だったよ」と声をかけられた。
 ベルギーからのお客さんたちが外でランチをしていた時に、私はせっかくだからと思って羽が動く折り鶴をプレゼントして歩いた。日本の人たちから送ってもらった折り紙を、私はいろんな国に配って歩いている。この羽が動く鶴は、どこの国に行っても、あらゆる世代に人気があった。

「まぁ素敵! これ、あと二つもらってもいいかしら?」
 ノースリーブの白いワンピースを着た女性に声をかけられる。白髪を横に流した短い髪の女性は、頻繁に孫を連れて帰ってきてくれる娘にプレゼントしたいと言った。
「もちろん。たくさんあるので、もっとどうぞ」
 私はすでに折られた鶴だけでなく、持ってきた折り紙を見せ、好きなだけ紙を持っていってください、と言って渡す。
「わあ、嬉しいわぁ」
 彼女が折り方を知りたいというので、私は空いている椅子を持ってきて彼女の隣に座る。三つ、四つ、と折り進めるうちに、周りの人たちはランチを終えて、敷地内を散歩するために去って行き、私と彼女は二人きりになった。

「ここの住み心地はどう? 一人だと怖くならない?」
「一人は平気なんですけど、夜はたまに怖いですねー」
「ふふ、でもそれもいい経験だわ。一生のうちになかなか、そういうことできる時ってないもの」
「そうですね」
 日本人がほとんど来たことがなさそうな場所に一人で泊っている。自分でも素敵な人生だと思うのに、たまに不安が襲ってくるのはなぜだろう。私は正直に、彼女に自分の気持ちを打ち明ける。
「どんなことが不安なのかしら?」
「今、この瞬間はとても楽しいです。素敵な場所にいるなって思います。こんな経験、なかなかできないと思いますし。でも同時に、これをずっと続けてどうなるんだろうっていう気もしてるんです。いや、ずっと続けられるのかなって。いつか急に終わってしまったら、その後はどうしたらいいんだろうって」
「自分の未来のことかしら。そういうのはあるわよね。私も心配でどうしようもなかった時があったわ」
 自分でやり始めたビジネスが、最初は軌道に乗っていたのに急に業績が悪くなり、人がどんどん離れていってしまったことがあった、と彼女は言った。
「世界から見放されたような気がしちゃったの。誰も味方がいないような気持になって、とても不安になったわ」
「それは、すごくプレッシャーが大きそう。それでどうしたんですか?」
「不安を解消したくて必死になって、とにかく楽しめるようなことを毎日探すようになったの。まずは心を整えないと、そういうのが相手にも伝わってしまうって思ったのよね。味方をつけるためにも、今を楽しめないと、楽しんでる自分にならないとって思ってね。
 美味しいものを食べる、エステに行く、小旅行に行ってみる。いろんなことをしたんだけど、楽しかったはずのことが全然楽しめなかったの。それどころか、焦りが募るばかりで」
 彼女は両手を組んで、昔を思い出すように視線を周囲に流す。
「沈没する船に関わりたくないってことなのかしらね。みんなが離れていく中、昔からの友達がたまたま連絡してくれたの。急に思い出したからって言って。すごく久しぶりだったのに、私、大泣きしながら彼女に全部ぶちまけたのよ。本当は辛い、苦しい、不安、もうダメ、助けてって」
 彼女は首と両手を振りながら、その時の様子を表現する。

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