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現代アートの価値は過程をどうやって見せていけば伝わりやすいか考える

「プロセスを共有するところがお金を稼ぐメインとなる」というプロセスエコノミーという概念がきてるらしいです。

自分が知らないジャンルのことって、どのくらい時間がかかってるのかとか、作業の大変さってなかなか分からないですよね。

作品の制作も何度も塗り重ねていたり、何回もやり直しをしていたりするのを見てもらうと、作品への想いがその姿から伝わるところも多いのかなと思います。

ただ、ちょっと気になるのは、現代アートって「考えている」部分がすごく多いんですよね。もしかしたらマンガや小説なんかの物語をつくる人もそうなのかもしれないんですが。

マンガ家さんのキャラ設定資料なんかがたまに公開されていますが、キャラがいろんな角度で描かれていたり、血液型や誕生日、好きな食べ物などそのキャラの詳細まで考えられていますよね。

「頭の中でがんばっている時間はどうやったら見てもらえるだろう」

というのが、このプロセスエコノミーについて今、考えていることです。技術的なことは、調べるとけっこうすぐ出てくるので、クオリティを上げやすくなったと思うんです。

物語の作り方についても、こうしたら作りやすいみたいな「型」はあちこちで公開されるようになりましたが、実際に物語を創り始め、行き詰って、また道が拓けてみたいな創作過程に自分は興味があります。

村上春樹さんとかは、毎日同じ文字数だけきっちり書くっていう感じでマラソンみたいに書いているということが、エッセイで紹介されていました。あと、思いついた言葉をいくつか貯めておいて、それをある時引き出して書くとかですね。

思考の悩みがちょっと伝わったらいいなと思って、こちらの作品「甲府の桜」を創っている時の思考過程を、テキストで作業配信中のコメント欄に書いていくことにしました。

、、、アーカイブ残し忘れて作業データが消えてしまった。。幸い、こちらのnoteにコメントをメモしておいたので、抜き出して残しておこうと思います。次は気をつけるぞ!(かなしみ)

これまで考えている作品の要素はこちら。コンセプトは「創作を通じて関係性をつなぎ直す(社会治療)」です。

【主な要素はこちら】
創作オノマトペ(時に既存オノマトペも使うが創作は必須)
身体のパーツを表す漢字
細胞の線画
実際に自分が行った土地の写真(時に複数)
実際に自分がつくった作品(1点のみ)
その土地で聞こえる音を文字化したもの(オノマトペではなく、ゴゴゴゴゴなど本当に聞こえる音の文字化)

【これらが表しているもの】
リアルとファンタジー(写真や文字化された音と写真以外の部分)
フィジカルとデジタル(アナログ制作の作品写真)
マクロとミクロ(細胞線画と土地の写真、細胞の線画がミクロの世界・人体の文字がヒト・風景写真がマクロ)
生物と非生物(身体のパーツを表す文字とその他の文字)
言語と感覚(既存の文字と創作されたオノマトペ)
文化の最小単位としての文字
色で表された病(自然にはあり得ない色の組み合わせなど)
線で表された病(汚い不規則、自由度)
文字の創作・オノマトペの創作による病気の捏造

もともと獣医からアートを始めた自分には、病気の意味合いを変えたいという想いがあります。自分自身が幼いころに1か月半くらい入院していたことがあり、病気や病院というものと身近だったことも関係しています。

病気はそれほど悪いものではない、という印象なんですが、ある種の病気が時に差別的に扱われたり、恐怖の対象になったりすることがあります。ハンセン病とかは有名かもしれません。

病気自体にはいやなイメージがつきまとうことが多いです。それは、病気になってしまった時点で負のイメージを一緒に背負わないといけなくなるということかもしれません。であれば、そのイメージを変えたいですよね。

病気ってそもそも言葉で規定されるから病気になるっていう部分もあると思って、正常の状態でもがん細胞は生まれていますが、ある一定レベルに残っちゃうと病気という認識になっちゃうんですよね。「緩和ケア」と呼ぶか「延命治療」と呼ぶかでイメージがぜんぜん変わってしまうように、病気をなんと規定されるかによって、病気と宣告されることによって受けるダメージがぜんぜん違うものになることがあるように思います。

言葉によって病気が生まれ、言葉によって病気が強まったり癒されたりする。言葉から病気を癒すことができないか、というのは、言葉がその土地の文化・文明と強く紐づいているからというのもあります。

今回の動画のシリーズでは、実在の風景をベースにさまざまな視点を組み込んでいるんですが、このさまざまな視点を病によって繋ぐことができないかというのを試みています。

その前に病とは何か、を考えないといけません。病とは基準値からの逸脱でありと考えることもできます。では基準値から逸脱しているとは何か。それは違和感ではないかと。

ここで病とは違和感であると定義します。いつもの状態があり、ちょっと膨らんでいる、なんか気持ち悪い、みたいな違和感ですね。

ただ、その気持ち悪さも、慣れると自分にとっての日常になる。なんとなく、海外に行った時に時差ボケが治るみたいなイメージです。違和感もつづくと慣れる。最初の違和感は、違う世界に行くために必要なことなのかもしれません。

文字を創作することで違和感(病)を創作する

新しい文字を創作するというのは、アートの世界だとよく見かける手法でもあり、文字創作することで文脈を引き継ぐという意味合いが生まれます。

かゆ、という新しい文字をつくってみました。未知の病気としての漢字で、形状は愛らしさを漂わせています。

文字を文化の最小単位ではないかと考えているのですが、文字を創るというのは、文化から文明への移行を表していると考えることもできるかもしれません。

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新しい漢字ですが、漢字っぽいです。見慣れるほど世界に馴染んでしまうと、この字は違和感を宿す字ではなくなってきそうです。この辺りの違和感も、人によって違うということになります。「慣れ」というのが人によって違うというのもありますよね。

これまでになかった言葉(文字)は、受け入れられるまでは病(違和感)でしかないのかもしれません。それはたとえば新しい概念でも同じかもしれません。理解できるものの少なさ、という意味において。

次に文字について考えてみます。漢字は基本的に象形文字で、対象物の形を表しています。

見るだけで意味を理解できる「表意文字」と、単語を見ればその発音が分かる「表音文字」。

書の場合、文字の形に作家の動きがのるので、作家の動きが形状化したものが文字になるということは、もしかしたら書家の文字は話し言葉に近いのかもしれません。「あ」はパソコン入力だといつも同じ「あ」ですが、話し言葉だとちょっとずつ音が違う気がするんですよね。細かいことを言ってしまうと。

ところで、文字の形はかなり崩した文字でも同じ文字だと認識できます。どこから認識できなくなるのかというのを考えましょう。どこから文字は文字でなくなるのか。

たとえば、文字の画数が増えると「あれちがう」って思うようになりそうです。文字の一部の長さが変わるくらいだと同じ文字と認識されそうです。つまり、文字が同じ文字であるためには、長さは問題にならないけど、角度や画数は文字が同じ文字であるためには問題になってくる気がします。

ただ、画数が増えたものでも単体で文字だと分かるとしたら、それは他に「文字だと認識できるもの」があるからではないかなと。それがなくなると文字は文字でなくなってしまうかもしれません。

キャプチャ

「り」の中にちょっと違う「り」が混ざっている ↑

風景の中にある音について考えます。サウンドスケープという言葉があるんですが、音は言語に変換された段階で、正確な「音」は失われると思うんです。

私は日本語ネイティブなので、日本語で物事を考えようとしますが、自然の中で聞こえる音は正確に日本語にはできないと思います。日本語って母音言語なので、最後に必ずaiueoが入りますし。

つまり、言語として認識された音は、その段階で言語化した人の心象が入るんじゃないかなと。風の音を聞いて、「さー」って思う人もいれば「ほわー」って聞き取る人もいる。その心象風景がさらに極端になるとオノマトペ化(感性を含んだ言語化)します。

違和感はどう生まれるか

〇 ×
という2つの形があって、
ほんわ ケキキ
という2つの文字があった場合、〇がほんわで×がケキキかなという気がします。これって割とどの国でも分かる感覚で、音とカタチって対応しているって考えることができますよね。

形はそれに対応する動きをもっていて、音もそれに対応する形をもっています。その認識をずらすことで違和感を生めそうです。たとえば眉は縦には動かない気がするんです。眉という字は横に動く。これを縦に動かした場合、違和感が生まれます。あるいは極端に文字を止める場合も。

なんとなくの感覚ですが、

漢字の動きは意味にひきずられる
ひらがなやカタカナの動きは形にひきずられる

という感じがします。しっくりくる動きというのがなぜ生まれているのかはひきつづき考えていきたいところです。

またひらがなとカタカナの持つイメージの違いもあります。日本語は扱う文字の種類が多いので、日本人が形から受ける感覚の違いを視覚を通じて繊細に認識している気がします。

動きの病としての「り」
形の病としての「り」
両方を持った「り」

全てを病にしてしまう存在としてのやまいだれは、非常に分かりやすい病の象徴です。

全体的に降っている〇は、文字の種、あるいは病の種としての〇です。

風景の中に病気をつくること、感覚の中に病気をつくることで、病気を感覚、風景の中に馴染ませ、病気でない状態にできないかというのがこのシリーズで行っている試みです。

動画制作時に、一瞬だけ変なノイズが入ってしまったのですが、これはそのまま残すことにしました。ある種の違和感(病)です。

あんまりまとまりきらないですが、そんな感じのことを考えながら制作しています。こうして言語化することで、自分の中でもまとまるので、次に作品をつくるときにさらに深めていく、みたいな感じでやっています。

手を動かす時間は4時間くらいですが、この文章を書くだけでも2時間かかっています。でもまだぜんぜん考え途中です。

現代アートは日本では特にマイノリティです。「アートってよく分からない」って言われることのほうが圧倒的に多いです。でもそれは、これまで普通に生活してきた中でアートを学ぶ機会がなかったからなんですよね。私だってもともとアートの人じゃなかったので、「なんだろ全然わかんない」って思っている側でした。

一般的な美しさがない。何言ってるか分からない。なんでこんなのがそんなに高額なの。

現代アーティストの社会への問題提起は、私自身は今の社会にとても必要なことだなと思っているんです。Twitterで簡単に意見を述べることはできるのかもしれないですが、いったん立ち止まってもう少し考えてもいいんじゃないか。考える視点やきっかけを与えてくれるのが現代アートじゃないかと。私はそういうアーティストたちの哲学に救われた気持ちになりますし、自分でもそういう誰かの希望になる概念を提案したいなと思っています。

こうやって考えていることがすぐに役に立つのかって言われたら、ぜんぜん役に立たないと思います。でも考える行為というのは、人間として大事なことなのかもしれません。

長々とお付き合いありがとうございました!

次は忘れずにアーカイブありで配信するぞ!

最近は配信開始したらTwitterで告知するようにしているので、たまたま見かけたら配信のぞいてやってもいいぞっていう方はTwitterをチェックしていただくと早いかもです。


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