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心の中に住んでいる小さな私の話

人は子どもの自分と納得してさよならができたとき初めて大人になれるのではないだろうか。最近私はそんなことを思うようになった。玩具を買って貰えなくて床を転げ回る子どもがいつの間にか我慢を覚えるとき、それは「転げ回る自分」から上手に卒業できたからじゃないかと思うのだ。初めて一人で着替えができたとき、一人でお留守番ができたとき、一人で買い物ができたとき、今までできなかった自分に「もう大丈夫だよ」と別れを告げて一歩前に進んでいく。この繰り返しが大人になるということだと私は思う。

じゃあ上手にさよならができなかったとき、幼かった自分はどこに行ってしまうのか。その答えは「自分の心の中」だと思う。

私の心の中のは小さな私が住んでいる。幼い私は何人かいて、どれも私が子どもの頃にしっかり別れを告げられなかった子たちだ。

私の親は主に「心の虐待」と言われるものをしてしまう親だった。私はしょっちゅう弟と比べられ、可愛くない、本当は欲しくなかった、金食い虫、産まなきゃ良かった等テレビか漫画で出てくるような鋭い言葉たちに刺されながら生きてきた。暴力もたまにあったし、清潔面への制限をされたり、あまりよくない環境だったと思う。

そんな環境では当たり前だけど我儘は許されなかった。自分の誕生日さえ金食い虫と罵られながらとりあえずケーキが準備され、弟へのプレゼント(これがいまもよくわからないけど、私の誕生日は弟にもプレゼントがあるシステムだった)のついでに私の欲しいものが一応与えられるぐらいの環境だ。普段あれが欲しいこれが欲しいなどと言葉にすれば、即嫌味と下手したら軽い暴力が飛んでくる。

生きるために私はなにかを欲しがる自分をどこかへ追い出した。上手にさよならする余裕なんてなかった。とりあえずどこかへ行って貰わなきゃ困るので、無理に追い出して我慢できる自分を手に入れたつもりでいた。だけど本当は追い出せてなどいなかったのだ。

いまはもう私は大人で、好きなものを買っても罵られず、中身をチェックされることもなく、親に小言を言われることもない。だから欲しいものはある程度我慢をしつつ買う……ようにできたら良かったのだけど、それがうまくいかないのだ。なにかを我慢しなきゃいけないとき、私の心の奥にいつの間にか住み着いていた小さな私が悪さをするようになっていた。その子は幼い表情を切なさでくしゃくしゃに歪めて言うのだ。「どうして我慢しなきゃいけないの?」「ずっと我慢してきたのに」「本当は欲しかったのに」「弟は買って貰ったのに」「なんでダメなの?」「どうして『私は』ダメなの?」はらはらと涙を落としながら、そう訴えかけてくる。こうなると大人のはずの私がこの子を宥めるしかなくて、自分の心の欲求と理性がせめぎ合い冷静さが保てなくなるのだ。

私は散々小さな自分の欲求を追い出してきた。親に言葉で刺されないように、嫌われて本当に捨てられないようないい子になるために、自分の感情や欲求は全て追い出してきた。そのツケをいま払っているように思う。

一番厄介な小さな私は「愛されたがり」と「不安な心」を持っている子どもだ。誰かに愛されたくて自分を犠牲にしてでも誰かの愛を求めてしまう自分と、色々なことに不安を覚えては叱られないかビクビクしている自分が一番厄介だ。

「大好きだって言って欲しい」「すごいって褒めてよ」「一番だって言って」「居なくなったら困って」「私が居なきゃダメだって言ってよ」「なんでもするから愛して」愛されたい自分は追い出した回数も多いから、少し大人びた話し方をする。それでいてしょっちゅう出てくるから、感情を飲まれないようにするのが大変だ。

「そんなことしていいの?」「お母さんに怒られちゃうよ」「そんな価値は私にはないってお母さんも言ってたよ」「自分で何もできないくせにやるの?」「失敗したらどうするの?」「嫌われてもいいの?」不安な自分は親に言われた言葉たちをなぞる。自分の価値を落とそうと、親の決めた価値観に寄り添って愛されようとしてしまう。

ここまで話した小さな私は専門用語で「インナーチャイルド」と呼ばれる子どもたちだ。上辺だけ大人のフリを続けて生きてきた私は、子どもの頃に追い出した自分に時々責められる。

子どもの我儘が成長の上で大切な感情だと言われるのはこういうことじゃないだろうか。子どもの自分と上手にさよならすることが健全な精神を育てることに繋がるのだと思う。

私の中にはまだたくさんの子どもたちがいつか報われる日を夢みて待っているのだ。少しづつでもいいから、私もこの子たちと上手にさよならができるようになればと思う。まずは自分の中の自分を愛せるようになれたらいいな。

心の中に住んでいる小さな私が笑顔で手を振る日を目標に。



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