光の庭〜 #いじめ被害 激化と思春期の序章〜

表題は1984.4の中学の入学式をした学校の中庭の別称である。

その当時は校舎が落成したばかりで、体育館が完成していなかった為に止む無くそこで行われた。

新設校でやる入学式に参加する私を含めた生徒は第1号であったのは勿論、同然校歌がないまま三年生不在で敢行することになった。

私と同じ小学校から来た生徒は数少なく、面識がない他校の生徒と新しい #人間関係 が築くことが出来ればと願いつつ、極寒の中で起立したまま参列した。

昨日の季節外れの極寒であったことから吹抜けからくる寒風の下で入学式に真冬のコートを着て同伴した実母とテレビニュースを見ながらその日を回顧した。

後日知ったことだが、その日は風邪が治っておらず、式が始まる前に鼻をかんでいた私を当時のクラスメイトからばい菌扱いにされたことから悲劇が起こった。

そこからエスカレートして、挨拶を小声でしたものの、挨拶をしていないと見なされた事や 授業中の音読等で #吃音 である事や体育の授業で酷い運動神経の鈍さを見られて笑われたりしたことから、

障害者=今のガイジ=知的障害者

呼ばわりされて、友達作りが大幅に遅れてしまうほど #不登校 になってもおかしくない状態だった。

同じ小学校だった生徒がいじめ加害者の大半を占めていたことから他校の生徒に私の知られたくない事等の悪口を言っていたことからなるべく関わらないようにしていたが、逆に

避けている

と言われてしまう程、入学早々から居辛くなり、別の中学に行った友達のところに戻りたい気持ちが強まった。

だが、小学校高学年で同じグループにいた女子のひとりに当時の小学校の校区から来る人はほんの僅かだから #いじめ被害 から庇ってくれた友達と別々になる為に助けられない事や #友達作り を受け身の形で待つだけのスタイルから自ら話しかけられるような積極的な性格になって欲しいと言われたことで、どんなに辛くても一人で生きていかなくてはならないことを覚悟していた。

現在は前述のレベルの被害にあった場合は隣の校区の中学に転校できるという条例があるものの、厳格な両親に

どんな酷い仕打ちを受けても回避して不登校することは厳しい社会に通用しない

と強く言われ、耐える他はなかった。

2歳の頃に喋り始めが遅れているといった障害の疑いがあるという理由で出生した病院が作成した系列の病院で受診指示する旨の紹介状があったことから、上記の理由でいじめが起こるのは確実に起こり、 #特別支援学校 や他校に設置している同類のクラスで授業を受けた方がいいと言われるぐらいだったことから #発達障害 の疑いがあると考えられるが、現在の私は側から見ると人並みにそつなくこなせていると言われている。

手先の不器用さと運動神経の鈍さと家族の無理難題な会話対応ができなかったことから人並みに出来ない生き辛さが引き金となったことが原因でそんな施設同様の場所に行きたくないという根性で理不尽な社会に適応する努力をした。

このようなレベルのいじめ被害で逃げてもおかしくない状態でできなかった影響で #いじめ後遺症 を患っており、過去の加害者と絶縁している状態になっている。

後から思い返すと、

初めの印象が肝心

であることから人生の門出を迎える場所で悲劇に遭った出来事を思い出し、余計に空気を読んで行動するようになったことから自分らしく生きられないという心の悲鳴に悩まされている。

只今失業中で高齢家族に合わせた生活を強いられており、取材する時間と費用がない状態で2時間という短時間で執筆しなければならない厳しい状況です。 主たるジャンルはいじめ、ハラスメント等の労働・社会問題を過去の回想を基にして執筆しております。