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[日録]明朝体の派閥が背負うカルマ、その厚さ

 May 4, 2021

 一端の社会人でありながら、カーネギーに始まり有象無象のビジネス書と呼ばれるものに対しては、これから幾ら研鑽を積み重ねようとも書かれている内容を一つ足りとてものにできないであろう私であるが、そんな私でも皆と同じようにスティーブ・ジョブズは比類なビジネスマンであったと認識している。私は社会を構成する一員となり、汗水を垂らして稼ごうとするほどにお金は好きだが、お金儲けの才能は前世に忘れてきてしまったのか、そもそも涅槃にたどり着くまでにそんな人生が訪れるのかすら分からないが、兎に角、自分の携わるビジネスを遂行する上で氏の行動を模範として取り入れることは、私には到底できそうにない。氏の最大にして最強の発明であるiPhoneとMacBookを日常的に使ってはいるが、映像制作をするときはFinal Cut Proなど一瞥することもなくAdobe CCを用いる上に、作業環境はWindowsである。PCのスペックに対してのコスト、即ちコストパフォーマンスがMacよりも断然良く、映像制作に必要な労力のフィードバックとして得られるプロダクティビティを重視すればWindowsをセレクトすることは当然の帰結であるといえるだろう。以上のように、俗物未満に過ぎない私などが背伸びをしてできるビジネスマンのフリをしようものなら浅はかな横文字を駆使して空虚な言葉を並べた末に競合他社のプレゼンをするに至ることからも、私が氏と肩を並べるような比類なビジネスマンになることは今世においては起こり得ないとご理解いただけたであろう。
 比類なビジネスマンは、往々にしてアーティストとも形容されることがあるが、スティーブ・ジョブズも紛うことなくその内の一人だろう。氏が毎日同じ服を着て、その日の脳が選択のために用意している容量をできる限り確保するというのは有名な話だが、この世間一般の体裁を気にしないといった姿勢が如何にもアーティストらしい。映像業界においてトップクラスに君臨する庵野秀明監督も、ご結婚されるまでは風呂に入らない日が何日も続く上、スナック菓子を主食としていたと聞いたことがある。そのような生活であれば着る服などにも無頓着であったと失礼ながら予想でき、脇目も振らずに創作に没頭している孤高のアーティストの後姿が浮かんでくる。庵野監督の場合は、ジョブズ氏のように言葉にするほど意識的にその選択をしていたわけではないだろうが、そうであるからこそ、垣間見える狂気性がより一層感じられる。その様こそが世俗のイメージする "アーティスト" 然であると受け入れられ、生み出す作品すらも筆舌に尽くし難い魅力を放つこともまた必然であり、事実であろう。
 かく言う私も、御二方と比べるわけではないが、容姿への気遣いは仕事上最低限の文句を言われない程度にしかせず、ファッションに対しても無頓着である。徒歩10分先の美容室に行くのも億劫で、美容室版ウーバーイーツがあれば迷うことなくダウンロードするだろう。そんな私がブランド物など持ち合わせているはずもなく、ファッションについて何かしら否定するつもりは毛頭無いが、心の片隅では世界のすべての服がユニクロで統一されますようにと祈りを捧げている。そんな私からすれば、制服やスーツといった画一化された統制概念が支配する環境下で暮らすことは然程苦ではないし、むしろ喜ばしいことで、それでいて私が私として健全なまま生きていくに足る程度のお金を手に入れられるのであれば、昨今では拘束具などと形容される黒装束に身を包むことを静かに受け入れよう。プライベートでは、目についた服を自動的に手に取り身に纏うだけなので、今のように七分袖の赤いシャツの袖先から黒のヒートテックが顔を覗かせ宵闇に連れ去ろうとするかと思えば、下からは真緑のナイロンパンツが部屋の彩りを図らずも乱してしまうといった事態を引き起こしてしまうことになる。そんな様を意図的に見せたいわけではないからこそ、この格好であることを私は何も気にはしない。 "休みの日は何も考えずに休みたい" という至極当たり前の感情を極めた末路であると憐憫の感情を向けられるであろうことも重々承知しているが、その当たり前の感情を突き詰めたことにより、却って世俗から離れてしまいそうになっている自身の境遇も又興味深い。昨今では、新型コロナウイルスの影響により在宅時間が増え、飲食店を始めとする様々な事業が大打撃を受けているが、それは如何に世間の考えが "休みの日は何も考えずに休みたい" と実行する私の態度とかけ離れていることかを証明した。私は本当に心の底から "何も考えずに休みたい" と願うのだが、どうやら飲食店で食事をしたり、カラオケやボーリングで遊ぶことができなくなったことからストレスを抱えるという反応を起こすことが社会の総意だったように思える。勿論、私の同志も社会にはごまんといるだろうが、私の同志は悲しい哉、我等が社会の総意に成り得ない道を進んでいることを抵抗なく受け入れ、悔やむことすらせずに邁進し続けているのだと想いを馳せる。我等はアウトサイダーなどでは決して無く、サブカルチャーという言葉に対しては遺憾の意を表し、おれが好きなものを "サブ" というなど何事かと独り言ちては部屋の片隅で分厚い本でもめくって見せ、やがては憤りなども忘れて我等だけが享受できる甘美な空間で微睡むうちに現実の空間においても知らぬ間に眠りに落ち、朝を迎えては葬式に出かける何とも尊い存在なのであるが、現実の世界は我等が羽根を伸ばせるほど広くは無いため、この不屈の意思は気付かれ難いのである。加えて、我等は満員電車に揺られながら、なぜ気付いてくれないんだろうと首を捻る反面、無意識下で意識的に気づかれないようにするという特殊な霊性を獲得しているからこそ現実の地に足を着けて歩くことができているのであるが、迚も斯くてもその霊性を保ち続けなければ皆と足並みを揃えることすらできない。つまり我等は享受されるはずがないと確信しているからこそ、安心して享受されようと努力することができる頑張り屋さんなのだ。汗水流して働くことこそ、人類が人類足り得、この短くも長い栄華を皆が一丸となって支え続けて行く唯一の方法であると理解しているので、私たちは厭うことなく朝陽で目を覚ますことができる。我等の場合は、目覚めたら選択する意識が芽生える前に皺だらけのワイシャツに袖を通し、甘美な空間との再開を祈りながら螺状に絡み合う地下へと連れ去る巨大な鉄の塊に足を踏み入れる毎日を繰り返し過ごせるかどうかを不規則なリズムの揺れの働きに伴いようやく回り始めた頭でぼんやりと考えてばかりいて、身体を労ることには目も暮れず、浮かんでくる雑念と脳内で戯れては勝手に不機嫌になってしまう。これらは総じて芸術に虜にされた経験を持つ我等の日常である。これをアーティスト然としているかどうかは、我等は当事者なので答えられない。その答えを聞きたいわけではないし、悲観的になっているわけでもなく、私はただ冒頭で述べたように、結果的にスティーブ・ジョブズと似た習慣を行なっているからと言って、氏を模範とすることはできないのだという己の不甲斐なさを伝えたいのだ。私などが選択を減らしたからと言って、そのぶん雑念が増えるだけのことであり、これを記述している時点で本末転倒であることは自明の理なのである。比類なビジネスマンとなりたいのであれば、こんなことをしている場合ではないが、では成すべき使命が何かあるかと問われれば、そんなものは何もないと毅然と答えよう。今日も今日とて、数多の御託を並べて何とか一日を生き切ることこそ、我等が表明するべき態度である。
 また、氏は大学時代は興味のある講義しか取らず、興味が湧かなければ必修であっても参加することはなかったそうで、そんな大学生活を送る中で出会ったヒエログリフに関する講義に夢中になり、そこでフォントやデザインといった視覚的な情報を美しく整えることの素地を身に付けた。私が今現在のようにMacBookで文章を綴っていてもつくづく思うが、この眼前に拡がる洗練されたデザインと美しいUIを軽快且つ快適な操作で扱える唯一無二の利便性は、Windowsには生み出し得ないものであろう。視覚的に目を惹かれる空間の中で踊る手に対して、心地良いリズムで応答してくれるApple特有の美学には惚れ惚れするほかない。
 曲がりなりにも本業の一部として映像制作に携わる人間であるから、私も視覚的な情報は映像に限らず、須く大事に整えるように努力している。例えば、私のnoteは "投稿した記事を明朝体で表示する" 機能をわざわざオンにして、デフォルトのゴシック体を基調とした世界から乖離しようと試みている。その動機は、ビートルズの歌詞を和訳した時にどうもゴシック体だと味気なく感じてしまったからであり、決して私の文章が明朝体の世界に適しているのだと自負しているわけではない。noteはただの気紛れで始めただけで、当初は私の文章を投稿しようなどとは考えていなかった。そもそもnoteに登録する前に和訳を行なっていたので、MacBook上で和訳をする傍ら、ゴシック体と明朝体の両方を作成して見比べるなどして明朝体の方が良いだろうという結論に至ったのである。このような能書きを垂れて自らを肯定してあげさえすれば、私が私を明朝体の派閥へ導くことなど造作もないことだ。和訳も終えたところで、いざログインし、さあ明朝体にするにはどうすれば良いのだろうと調べている最中に読んだ一つの記事に虚を衝かれ、自分の見たくもない卑しい感情を曝け出されたような気がして、思わず脂汗が滲み出た。

noteをはじめてしばらくして、一時期、明朝体に設定していたことがありました。なんとなくかっこいいし知的な感じになる気がしたからです。

でもその時期に「自分の文章は、明朝体にふさわしいレベルの文章にはまだいっていない」みたいな言葉をどなたかの投稿で読んだことがあり、「えー、明朝体にふさわしいレベルの文章というものがあるのか」と思いました。

そのとき自分の文章がそうとは思えずプレッシャーを感じ、とりあえずゴシック体に戻したんです。明朝体なんて私ってば恐れおおかったのねって。

 勝手に引用をいたしておきながら、この素晴らしい文言が私の縄張りでは明朝体へ変換されてしまう詰めの甘さも含め、私は自分が綴る文章に不誠実であったと自白しなくてはならない。椿-TSUBAKI-さまの元記事然り、他の記事を拝読して思うに、ゴシック体は書くことに対する誠実さではなく純粋さの純度が高いほど映える書体では無いだろうか。表題からは書くことに対して誠実に向き合う中で気づいたことを受容し、純粋な気持ちに沿って自らの道を選ぶ、その一連の行為すらも歓びとして慈しむ御人柄すら窺える。対してその時の私は、明朝体に切り替えれば、その派閥に勝手に享受されるものだと思い込んでいたのだ。スターバックスの窓際でMacBookを軽快に叩くためには、それ相応のファッションに身を包むことも社会のルールでありマナーであり、畢竟、私の動機が何であれ明朝体を選んだならば、それの持つコナトゥスを高め続ける気概で文章を書かない限りは衒った文章以外の何物でもないと切り捨てられてしまい、その切れ端はnoteという今や広大な電子情報の荒波に呑まれ、誰にも見つかることなく漂い続け、すぐに無くなる。そうなったが最後、私は比類なビジネスマンになるなど以ての外、俗物未満として金輪際生きていくことを余儀なくされる。私の未来はそもそも明るいものでは有り得ないと漠然と感じてはいるし受け入れてもいるのだが、明るいものであって欲しいと願う気持ちは多分にあるので、それを手に入れたいと望むのであれば、私が選んだ道に対してはなるべく真摯であり続けようと誓った今、このような文章を長々と書いているのだが、如何だろうか。享受されないからこそ努力する青春の残り香に縋って生きていくのであれば、できるかどうかはさておき、私はそれを体現するような文章を書こうと心に決めなければならなかったのだ。スティーブ・ジョブズの人を突き動かす名言と謳われた、氏の言葉を胸に。

stay hungry, stay foolish.

 最後に、氏は変化を恐れない人でもあったと思う。氏はかつて、Final Cut Pro 7というずば抜けた操作性を持つ映像編集ソフトを開発し、私も好んで使用していた。一方で、その次世代のバージョンとして大幅に中身を変更した "X" は、大幅に "改悪" されていると数多の人間が認めるような代物だったが、その方向に思い切りよく舵を切った氏の姿勢は、率先して模範としていきたいと思う。 "7" は氏に見放され、"X" の後継はあれど "7" の後継は作成しないらしいと実しやかに囁かれている中で、あらゆる機能を網羅したPremiere Pro CCが台頭し始めたことを機に、私はタートルネックの男性に後ろ髪を引かれることもなく、映像制作の環境をAdobeへと完全に乗り換えた。私のようなものが何人もいることからも、氏の "7" から "X" への大航海は残念な結果に終わったといえるだろう。ちなみに、氏は初期のPremiereの開発の一員でもある。そのカルマをものともせず、何を言われようとも自らの道を突き進むその姿は、私に大きな指針を与えてくれる。私は、自分が心に決めたことすら疑ってみて、その結果、明日には筆を折ることになったとしても、何も気にしなくて良いのだと。そう解釈すれば、私の背負うカルマなど、吹けば飛ぶような軽やかなものだったのだ。カルマから逃れることは容易なことでは無い。何度も生死流転を繰り返す中で、比類なビジネスマンとして過ごす生すら無く何者にもなれない生だけを与えられることもあるだろう。さて、このnoteはどうなるのだろうか。私はまた投稿ページを開く自分でありますようにと願ってもないことを祈りながら、明朝体の派閥が背負う薄っぺらいカルマを引き剥がし、丁寧に折り畳んで床に置いた後、MacBookも畳むこととする。


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