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「世界1月号」ケア/ジェンダー/民主主義、奥野八代さん著、 これを読んで自身の感想とその展開

岩波書店「世界1月号」ケア特集。この中の記事で非常に興味を持ったものがあったので紹介し、私の感想とそれについて意見述べます。かいつまんで書いた記事ですのでコラムを読んでいるような感覚で読んでいただければ幸いです。

「ケア」は看護の現場どころか家庭にもあるものです。それの意義について理解していない方が存在するようなので考察いたしたいと思い紹介いたします。

以下引用
この記事の中で当に核心を突いているフレーズがある。 「水とダイアモンドのパラドクス」水なしに人間は生きてゆくことは出来ないが、誰もが必要としていないダイヤモンドが高価な交換価値を持つのだ。
フォーブレを引用するならば「あらゆる男女の-或いは男らしさ女らしさといった規範の-違いが経済的に違いを引き起こすわけでは無い。しかし女らしさとケアの繋がりが、有意な経済的脆弱性を作り出す」
ケア役割を媒体として職場と家庭を労働の場とする女性達は家庭の中でも労働市場に於いても、自らの労働力を巡る交渉力に欠け、更に家庭内で費やす時間の長さと、低収入故に公的な政策に与える影響力も小さい。
経済的にだけでなく時間的に貧困と言われる女性達の多くは、こうしたケアを担うことで/担わされることでペナルティを課せられているという、皮肉としか言いようのない状態にある。 

ここからは自分の意見の展開です。

『女だから世話して当たり前』この現実がこの文章により現されている現状は封建時代以前より未だに続いています。

さて話は福祉の世界に飛躍する。

「やまゆり園」の事件とドキュメンタリー映画「普通に生きる」「普通に死ぬ」これの関連性について述べたい。やまゆり園事件の犯行を行った彼は殺傷したもの達を『価値の無い』と切り捨てた。

しかし「普通に生きる/死ぬ」では献身的なケアを行うために社会的な活動を地道に行っているケア提供者達がいる。この意識の違いはどこから来るのだろうか。

もう一度記事の内容に戻るとする。「イギリスで緊急出版され翻訳されている『ケア宣言』この一節で始まる 「この世界は、ケアを顧みないこと『無関心』『無配慮』『不注意』『ぞんざい』が君臨する世界です。(以下コロナウイルスと富裕層と多額に費やす軍事資金について述べてある)」

あの犯行を行ったものは、ケアする対象への意識がまさにそこにあったと言えると思われる。根本的に『ケア』の『意義』を理解できていない資質の無い「無関心で無配慮」な人間であったというとことだ。
この辺りで切り上げるが犯行を行った者が「男性だから」で済まされない。何故なら「大口病院事件」この犯行を行った者は女性でしかも看護師であるから。 『ケア』提供できる者にも資質とスキルが要求されるのであるものである。だからこそ社会的に認められ必要とされ信頼を得るべき存在であるべきだと思う。
現在高齢化社会を迎え『ケア』は絶対的に必要とされている、女性だけでなく外国人労働者までつぎ込まなくては為らないほどの現状です。『ケア』の意義をもう一度見直しそしてケア提供者の地位向上を図るべきであると主張し筆を擱くことと致します。

ありがとうございます!画材や資料に使わせて頂きます。