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ハートランドの遙かなる日々 第30章 ただいまウーリ

 国境の牛小屋はまだ健在だったが、見ないうちにすっかり荒れたようだ。木の葉で葺いた屋根は風で枝が引っ繰り返っている上、地面はぬかるんで泥に浸かったようになって、小屋も少し傾いている。
「ボロボロみたい……」
 アフラがそう言うと、アルノルトが泥の中を小屋の中まで歩いて行った。
「泥が溜まって小屋の中もドロドロだ。水捌けが悪いんだ」
 マリウスも小屋を一周駆け回って言った。
「ホントにドロドロー。やっぱり屋根はダメダメだね。穴だらけだ。でもぼくらがやったんだった!」
「僕もだ。もっといい屋根の作り方を習っておきたいな」
「そう言えばボクね、出入り口の布を屋根に投げて雨漏り少なくしてたんだ。それも飛んじゃってる」
 イサベラが思い出すように言った。
「確かにそうなってたわ。あれはそういう事だったのね。最後に来た時に私が戻したのだけど。それも想い出ね」
 マリウスは「あんまりいい想い出じゃないね」と笑った。
 イサベラもそれに答えるように笑い返した。
「いい悪いだけじゃないわ。あの時、ゼンメルの治療の為の小屋を作ればいいと私が言い出して、無理と言われたけど、ラウフェンブルクの方々が土地を貸して下さって、この小屋を作るのにウーリのみんなが協力してくれた。ほんのひとときだったけど、私はゼンメルを護ることが出来た。皆の協力を得られた事も素晴らしかった。そんな全部のことを少しだけ誇らしく思うわ。全部が想い出なのよ」
 イサベラは思い出深そうに小屋を見ていた。
 マリウスも負けじと言った。
「ボクも想い出あるよ。ボクも屋根の葉っぱを集めたり、紐で結んだりした。まあ雨漏りは酷かったけど……。ウーリから藁を届けたのも初めてのお仕事だったんだ。その時は友達のポリーも一緒にぼくの馬車で来てね。もう忘れられないよ。ここが無くなっても、ずっと想い出だね」
「マリウス君にも想い出になって、とても嬉しいわ」
 イサベラがとてもいい笑顔になったので、アフラも釣られて笑った。
「想い出がいっぱいね。マリウスは始めの日、私の為に一緒に来てくれたのよね。その日来るときに私、牛に突かれて怪我しちゃって……」
「じゃあ、あの頃にはもう怪我をしてたのね?」
「ええ。痛いのを我慢してたの。ここへ来るまでにも色々あって、りんごやお菓子貰ったりして、それを皆でここで食べて。ここには本当に想い出がたくさん。これももう撤去してしまうのね……」
 アフラがしみじみと名残り惜しそうに溜め息を吐いた。
 その想いはイサベラも一緒で、互いに寄り添い頷き合った。
「牛に餌を与える人に祝福を……か。これはもう外した方がいいね」
 看板を見て、アルノルトが同意を求めるようにそう言った。
「そうね」
 イサベラがそう頷くと、アルノルトは釘で留めた看板板を引っこ抜いた。それはアルノルトが形の悪い丸木を薄く割って平らにし、イサベラが字を書いたものだ。
「それ、私に下さるかしら?」
「いいよ」
 アルノルトは釘を石で打って外してから、看板をイサベラに渡した。
「想い出に取っておくわ」
「これを? 少し重いよ?」
「いいの」
 イサベラはそう言って、それを大事そうに抱えた。
「ブルグントに行く時に荷物にならないかい?」
「私には優秀な護衛達がいますもの。でも、乗る人も多いから、馬車が一杯になってしまうかしら?」
 イサベラの目がピエールに向けられ、ピエールは思わず目を反らした。
 騎士が亡くなり、その遺体を運ぶためにオーギュストが別の馬車を手配していて、もうこちらへは帰らない事は、まだ知らないはずの事になっている。
「まあ、何を持って行くかは自由だ。どこか壁に飾ってしまえば邪魔にはならなそうだし」
 アフラが手を打つようにして言った。
「どうせなら、記念に皆で名前を彫っておきましょう!」
「まあ。嬉しい! 寄せ書きね」
「僕も書くよ。僕が割った板だし」
 そう言って順番に、看板の木に名前を彫り始めた
 エルハルトはその間、国境の看板を見に行っていた。
 元の国境の場所には今や立派な立て札が立っている。
 エルハルトはその立て札の前で、その国境を出たり入ったりしてウロウロしていた。
「何をしてるんです?」
 クヌフウタとペルシタがそこへやって来た。
「ああ、ここはウーリとニートヴァルデンの国境でね。ウーリに入ったと思うと心が落ち着いたもので、ちょっと出てみたんですよ」
「出たらどうなります?」
「ええ、やっぱりちょっと不安になります」
「国境でそんなに変わるものなんですね。私はどうかしら?」
 クヌフウタとペルシタもそれを同じようにやってみて、「変わりませんね」と首を捻るのだった。
「兄さーん! クヌフウタさんも! こっちで書いて!」
 アフラがそう叫んで呼びに来た。
 そしてエルハルトも、そして小屋を建てた時にはあまり関係の無かったクヌフウタとペルシタも板に名前を刻んだ。
 イサベラが書き終わった板を眺めて言った。
「書いてくれてありがとうございます。大事にします」
 それから、アルノルトは肝心なことを思い出した。
「ところでだ。アフラはエンゲルベルクからいつ帰る? 迎えがいるのか?」
 アフラはモジモジと肩を揺らした。
「いつにしよう。しばらく帰りたくない……怒られる……」
 その途端、エルハルトが怒って言った。
「世の中には帰りたくても帰れない人だっているんだ! 怒られるのくらい判ってたんだろう! それでもやるんなら、自分で最後まで通して責任を持てる行動をしろ!」
「はいぃ!」
 アフラはエルハルトがいつになく怖い顔だったので、怖くて縮み上がった。それでもエルハルトは行ったらダメだとは言ってない。アフラはしっかり前を見て、もう一度考えた。
「私、クヌフウタさんに薬草のこと習いたいの。これは今しか出来ない事だわ。確かクヌフウタさんは、簡単な事なら三日って言ってましたね?」
 クヌフウタは頷いた。
「ええ。三日あれば基本的なことは教えられます」
 そう言われるとエルハルトは頷かざるを得ない。
 出来れば自分もクヌフウタに教わりたいくらいだったからだ。
「三日だな。父さんにはそう言っておく」
「ありがとう……。あと、お迎えもお願いします!」
 アフラはエルハルトを見て言ったが無理そうだったので、すぐにアルノルトに縋るような目を向けた。
 アルノルトは頭を悩ませつつ言った。
「一週間後には僕の怪我の抜糸に行くから、三日後に迎えに行くとまた行ったり来たりだな……。まともに仕事に復帰出来ない……」
 エンゲルベルクとウーリの間には高山が横たわっていて、馬車で行くには半日がかりで道を大回りするしかない。天候次第では一泊が必要な程だ。近道するには相当な高地の峠を越えるよりなかった。
 傍で聞いていたクヌフウタが言った。
「じゃあ、こうしませんか? 三日目は実地の勉強で薬草を採りに峠まで行きますから、そこでアフラを迎えて貰うというのは?」
「ああ、それは良さそう! 放牧ついでに行けるし」
「良かった。では、三日間、ご家族はしっかりお預かりしますね」
 エルハルトが言った。
「妹をよろしくお願いします。クヌフウタさんもローマへ行く準備があるのに、すみません」
「そうですね。その準備もしませんと。イサベラさんもここを離れる事ですし、少ししたらゲシェネンへ行ってみようと思っているんです」
「ラッペルスヴィル家の領ですね」
「ええ。その道の途中ですし、その時にアルノルトさんの抜糸には、こちらから伺いましょうか?」
「いいんですか?」とアルノルトは喜んだ。
 エルハルトも礼を言う。
「助かります。そのお礼と言っては何ですが、うちに泊まって準備を調えるといいですよ。山越えに必要な大抵のものは揃いますから。ゲシェネンは既にかなり山の中ですからね。道は大丈夫そうですか?」
「頂いたガイドマップ通り進んで行けば、歩いても行けそうな気がしてるんですが」
 そう言ってクヌフウタは腰布からガイドマップを取り出す。
「その地図を少し見せて貰っていいですか?」
 エルハルトはそのガイドマップを開いて道を辿ってみた。
「巡礼道はザンクトゴットハルト峠じゃなく、ジュネーブの方、もっと西のブルグント側の道ですね」
「あら? そうなんですか? イサベラさんの方?」
 イサベラがそれを聞いて一歩近寄った。
「領に入る辺りかもしれません。途中まで一緒にいらっしゃいます? でも距離は遠くなりそうです?」
 イサベラは首を傾げ、地図を覗き込む。
 エルハルトは地図を指さしつつ言った。
「距離ならこう迂回するより、ここからまっすぐ山を越えた方が遙かに近い。山さえ越えてミラーノまで出れば、あとは地図に沿って行けそうですね」
「そうですか。帰りもありますし、近い方がいいですね」
「ただ、山を越えるまではヴィンテルトゥールからここまで来たくらいの距離がありますから大変です。しかも泊まる所も少ないアルプス越えの山道ですしね。今日のように盗賊が出る危険もありますから、護衛がいる集団に加わって一緒に行く方がいい。戻ったら一緒に行ける人を探してみますよ」
「本当に助かります」
 クヌフウタは小さく礼を取った。
 アルノルトはマリウスの背を叩いた。
「そうと決まれば、さあ、馬車に乗れ」
「あれ? ボクは帰るの?」
「当然だろう。マリウスは行く理由が無い」
「ちょっと行って見たい……」
「ダメー。帰って父さんに成り行きを説明しろ」
「ちぇー」
 マリウスは幌馬車の御者席の真ん中に乗り、アルノルトはその横に座った。
 アフラがマリウスに声を掛けた。
「そうだ! マリウス。お父さんが怒らないよう、自分から付いて行ったって言ってよね。旅はいい勉強になったってしっかり言っておいてね」
「うん。判った。いい旅だったよ。城にも入ったし、自慢出来る」
 そうして、エルハルトも馬車に乗り込むと、「じゃあまた」と手を振り、あまりにあっさりと馬車を出し、そのままウーリへの帰路を取った。
 それを名残り惜しそうにイサベラとアフラ、そしてクヌフウタ達が見送っていて、やがて馬車に乗り込み、逆方面のエンゲルベルクへと戻って行った。


 青く深くまで透き通るウーリ湖を望む湖畔の急な坂道。
 遙か眼下に見える見慣れた故里の風景に心を和ませつつ、エルハルト達の馬車が家に着いたのは、もうすぐ日が沈むような時間だった。
 エルハルトとアルノルトは馬を労って撫でてから、一度牧場に放してやった。休憩もあるが、新鮮な草を自由に食べさせるためだ。
 グラウエスは初めて見る広い草原をはしゃぎまわるように走った。マリウスもそれを追いかけて走り回った。それを笑って見ながらエルハルトとアルノルトは馬車を家の隅に片付けた。
 そうしているとカリーナが玄関先に出て来た。
「あなた達! チューリヒから帰って来たのね!」
 エルハルトが手を広げて母に返事をした。
「ただいま、母さん! ようやく家に帰れた!」
 最後はもう心の叫びだった。
「おかえりなさい! もう心配し通しだわ。無事に帰れて何よりだけど、エルハルトも人が悪いわ。どうしてちゃんと追放の事言ってくれなかったの?」
「悪かったよ。罪を負ったなんて言えなかったんだ。アルノルトのことも嘘じゃなかったしね」
「その罪ももう晴れたわ。アルノルトも無事帰れて何よりだけど、手紙の予定より一日遅れだったわね」
 次にはアルノルトが言った。
「うん。途中ラッペルスヴィル城に寄って、アインジーデルンにも寄って、シュウィーツでもあちこち寄って来たんだ」
 マリウスも走ってやって来た。
「ただいま!」
「マリウス! あなたまでどうして勝手にいなくなったの! アフラは? アフラはどこ? どうしてアフラはいないの!」
 カリーナは大きな声で捲し立てた。
 エルハルトが言った。
「母さん、心配かけてごめん。アフラは薬草の勉強に先生に付いてエンゲルベルクに行ったんだ。前に来たシスターのクヌフウタさんだから安心して。三日後に帰る予定だ」
「そう。アフラったら書き置きだけ残していなくなって……今度はまた独り勝手に帰って来ないなんて……どうして急にこんな悪い子になってしまったんでしょう」
 アルノルトが言った。
「アフラの事を言っておくと、この二週間すごく勉強してたよ。逗留してる修道院の学生になって偉い先生にも学んだし、ラテン語を読むくらいになった。シスターの先生を手伝って、今は薬草の事を学んでる。貴族と接して行儀も良くなった。二週間少しで信じられない程勉強したんだ。その意味ではいくらお金を出しても得られないくらい価値ある時間だったと思うよ」
「それはすごい事ね。少しは信じてもいいのかしら?」
「うん……でも危険もいっぱいあったよ。王子に狙われたのは言ったけど、修道女になりかけたり、薬飲んで死にかけたり、ウーリとの無理な往復をして路頭に迷う所だったりね」
「往復? じゃあ、元々戻るつもりだったの?」
「父さんが無理矢理連れ帰ったからね。アフラにも約束はあるんだ。相手はしかも王女や偉い先生だ」
「そうだったのね。でもお父さん、カンカンよ」
「やっぱりね。なんとか話を円く収めてやれないかな?」
「あれじゃあ駄目ね。アルノルトは裁判で大変だったようね。でも裁判には勝ったから、お父さん、ニコニコしてそれを話してたわ。アルノルトがそれを絡めて話すのが良さそうかしらね?」
「そうだね。そうする。でも他にも父さんに話す事がたくさんあるんだ。どれから話そうか悩むくらい……」
 アルノルトは今から頭を悩ませた。
 その後ろから出て来たマリウスは、カリーナを見上げて謝った。
「ごめんなさい」
「マリウスはアフラに付いて行きたかったんでしょう?」
「うん……」
「次からは絶対勝手に行かないでね。お母さん心配で碌に物も食べられなくなるから」
 そう言ってカリーナはマリウスを撫でた。
「心配かけて、ごめんなさい。でも、いい旅だったよ」
 マリウスは再び謝り、カリーナに抱き付いた。
 兄弟達は馬車から荷物を運び入れつつ家の中へ入った。そして久しぶりの家で大いに羽を伸ばした。
「家だー!」
 特にエルハルトは追放の罪が晴れ、命の瀬戸際を抜け、家に帰って来れたことが心から嬉しい様子だった。
 そしてしばらくするとブルクハルトが帰って来た。
「父さんお帰り」
「おお、アルノルト、それにエルハルトも一日遅れだが帰って来たか。マリウス? アルノルトから手紙を貰わなければ捜索願いを出す所だったぞ? いや、村長のところにもう言いに行って、村長にマリウスもアフラと一緒に行ったと聞いたんだ。これからは厳しく、勝手は許さんぞ」
「ごめんなさい。もうしません」
「アフラにも言わんといかんが、どうしたんだ? アフラは? たっぷり説教してやらんとな」
 アルノルトは深刻そうに首を振って言った。
「父さん!」
「何だ?」
「じつはアフラは……間違って毒の入った水を飲んで、死にかけたんだ。昨晩の事だ」
「な、なんだって! 無事なのか?」
「もう山は越えたけど、一時は呼吸が止まって、人工呼吸しなきゃならないほどだった」
「大丈夫なのか! 今はどこに?」
「クヌフウタさんが付きっきりで看病してくれて、今はもう回復したんだ。でもしばらく様子を見た方がいいから、エンゲルベルクのクヌフウタさんに預けて来たよ。ついでに薬草の勉強もさせてくれるそうだから、三日後に迎えに行って来るよ」
「そ、そうか。回復して何よりだ。しかしアフラは何かと危なっかしい奴だ!」
 カリーナも若干顔色を変えて目を丸くしていた。
「さっきはそこまで言ってなかったから……驚いたわ」
 アルノルトは大袈裟に驚いてみせて言った。
「その場を見てた僕等の方が驚いたよ。生きた心地がしなかったね?」
 エルハルトは真面もの顔で頷いた。
「全く本当だ。すぐミルクを持って来てくれて、眠る寸前にたくさん飲めたから助かったようなものだ」
「本当なのね!」とカリーナの顔色がさらに真っ青になった。
 マリウスが色を失った目で言った。
「ボクが悪いんだ。毒花入れた水をお姉ちゃんに渡しちゃったんだ。もし死んでたらボクは人殺しになるところだった……」
 ブルクハルトもカリーナと同じくらい真っ青になった。
「過失でも大きな罪になるところだ! ウチから犯罪者が出るなんて……二重で危なかったのか……」
 そう聞いて、エルハルトが酷く動揺して言った。
「ああ! 父さん! オレの話を聞いてくれ」
 エルハルトは父の前に膝を突いて座り込んでしまった。
「どうしたエルハルト。顔色が悪いぞ」
 ブルクハルトは尋常でないエルハルトの様子に心配になった。
「罪は赦されているとは言え、ウーリではまた罪になるかも知れないんだ。今日のことだ。オレはシュウィーツで盗賊の討伐隊に参加して、人を殺したんだ……」
「討伐隊? 盗賊を殺したのか?」
「そうだ。しかも何人もだ。数も覚えてもいないくらいに……」
「シュウィーツで、盗賊が出たんだな?」
 横からアルノルトが言った。
「帰りに僕等が盗賊に遭ったんだ。その時は兄貴と護衛の騎士さんが強くてね、撃退して逃げる事が出来た。そしてそれを、シュタイネンのシュタウファッハさんに伝えに行ったんだ。そこでシュタウファッハさんに同盟国として討伐隊に参加してくれと言われて、僕は参加すると言ったんだ」
「シュタウファッハめ! 危険な事を言いおって!」
「あれ? シュタウファッハさんも悪いの?」
「当たり前だ! 剣の訓練もしてない若年者を戦闘に立たせるなんて! 後で厳重抗議してやる!」
 エルハルトは首を振り言った。
「父さん。問題はそこじゃないんだ。今なら言える。オレがいたからこそ盗賊は壊滅出来たんだ。でなければ人質を取られたらもう全員が剣を捨てて、無防備でやられてた所だ。そんな悪辣な奴らだった。オレは怒りに我を忘れてそこへ飛び込んで、二人で壊滅させたんだ」
「二人で壊滅させた? 剣も扱えないのに?」
「ハルバートを振り回したんだ。直前に先生に剣を習った事が助かったし、強い騎士さんも護ってくれたんだ」
「エルハルトはじゃあ、功労者じゃないか!」
「そうでもあるかも知れない。でも、盗賊だという証拠を確かめもせず、見付けたアジトにいた人をたくさん殺したんだ。ウーリでは罪にならないかい?」
「罪どころか、これは第一級の功しだ! しかも同盟国としての盟約を立派に果たしている。ならばこう言おう。でかしたと!」
 ブルクハルトは満面の笑みでエルハルトの肩を叩いた。
「父さん……」
 エルハルトの双眸からは、みるみる涙が溢れた。
「泣く奴があるか。明日には村中の大ニュースだ。お前を森林三州の英雄にしてやろう。人殺しなんて言わせないさ」
 エルハルトは涙を拭いた。
「いいよ……罪が無ければそれでいいんだ……」
「いや、儂がやらなくても、シュウィーツから報が伝わるさ。一気に我が家の株が上がるぞ。何か褒美をやろう。あとで何でも望むものを言うがいい」
 アルノルトはそう聞いて顔は自然と笑顔になった。
「兄さん、これは凄い栄誉だよ。僕のくらいじゃもう負けたよ」
「アルノルトも十分凄いじゃないか? 話してあげるといい」
「アルノルトも何かあったのか?」
 ブルクハルトはホクホクした笑顔で言った。
「僕もいろいろあったよ。何から言おうか」
 アルノルトは肩を捲った。
「これを見て」
 肩の傷は包帯が巻いてあるが、少し血が滲んでいる。
「怪我したのか?」
「これは名誉の負傷さ。刀で切って、七針も縫ったんだ。これもクヌフウタさんがしてくれた。もう恩人も大恩人だよ」
「アフラのこともあったし、本当に恩人だな」
「その時の痛み止めの薬草の花がね、強い毒だったんだ。少しつけるだけなら痛み止めなんだけど、アフラはそれを飲んじゃって、呼吸すらも眠ってしまうくらいの深い眠りに入ってしまったんだ」
「それは相当危なかったな……」
「クヌフウタさんはそんなアフラにミルクや人工呼吸の処置をして助けてくれた。僕も交代して人工呼吸したんだ」
「それよりアルノルト、その傷の原因を言わないと」
「そうだ。今日は父さんに話す事が多過ぎて困ってしまうよ」
 話の中、カリーナは食事を運んで来て、家族は夕食を摂りながら話をした。
 アルノルトはラッペルスヴィルであった事を父に話した。
 こんな怪我をして侵入者を捕まえた事、もう一人捕まえるとそれは助けてくれた恩人で、断罪される所を弁護して助けた事、それによって誤解による争いが防がれた事、そのお礼で馬と馬車を貰った事、ブルグントの騎士達とも仲良くなり、帰り道で盗賊から護ってくれた事、そんな話が食事が終わっても長く続いた。
「という事はだ、アルノルトのそんな全ての行為があってこそ、ブルグントの騎士の援助が得られて、帰りに盗賊を防いで無事に帰れたって言う事だな。盗賊の討伐隊参加までもがアルノルトの判断だった……」
 父がそう言うと、エルハルトも頷かざるを得ない。
「確かにそうだ。クヌフウタさんが言ってたが、これはまるで神の采配のようだ……アルノルトはやっぱり少し何かが違う……」
「いや、それは偶然だよ?」
「いや、アルノルトだけが最良の判断を重ねているんだ。それが無ければどうなっていたか、考えるのも恐ろしいよ。それは第一級の功しだとエリーゼ様も言っていたが、その通りだ。あと、もう一つすごい事があったじゃないか。騎士叙任という」
「騎士叙任? どういう事だ!」
 ブルクハルトは驚いて目を丸くした。
「シスターアニエスはブルグント王女でね。騎士に叙任して貰った。目の届く範囲のブルグントでは騎士として認められるんだって。これがその叙任の短剣だ」
 そう言ってアルノルトは騎士の短剣を父に見せた。
「この短剣は! ブルグントの紋章入りの騎士の剣……この年で騎士叙任とは……」
「でもウーリでは国が違うから、本当に騎士というわけではないでしょう?」
「まあ、そうだ。騎士になるには長い見習いの期間があって、そこから認められた者が叙任されて初めてなれるものなんだ」
「騎士団に入ればもうそれで騎士じゃないの?」
「騎士団に入っても、殆どは騎士の叙任は貰えない。修道騎士と言って、修道士の扱いになるんだ」
「僕は騎士になると彼女に約束をしてしまったよ。本当の騎士になるにはどうすればいいの?」
「騎士になるには……か。さっきの叙任で認められるのは、その実殆どは家柄なんだ。ウーリでは今はアッティングハウゼンさんの家系や聖ラザロ騎士団にしか騎士はいない……」
「じゃあ、僕が本当の騎士になるには……ブルグントに行くしかない? まさかそういう罠だったりするんだろうか……」
 アルノルトは腕を組んで考え込んでしまった。
 ブルクハルトも何かをじっと考えて言った。
「この騎士の剣は、しばらく儂に預からせてくれ」
「え? すぐ返してよ。宝物だから」
「ああ、返す」
 次にはエルハルトが父に聞いた。
「そう言えば父さん、ブルネンでツムブルネンって言う人に会ったよ。うちもツムブルネンの同族だって言ってたけど、それは本当?」
「ツムブルネンに会ったのか! ああ、そうだ。うちもそうだし、アッティングハウゼンさんもそうだ。シュヴァインスベルクもだな。ウーリでは住んでる地名が姓のようなものだから、そう名前が変わってるんだ。我が家はビュルグレンに住んではいるんだが、南の谷のエルストフェルト、ジーレネンも総轄しているからシュッペルとなったわけだ」
「へえ。じゃあツムブルネンの家系の人は結構多そうだ。じゃああと、この辺でペーテル・フォン・シュヴァンデンという人を知らないかい?」
「いや、聞いた事ないな」
「ウーリ出身のアインジーデルンの修道士なんだけど、三年前に雷に打たれて亡くなったそうだ。フォンが付くから貴族か騎士風なんだけど」
「なら、多分聖ラザロ騎士団にいたのかもしれない。エルサレム周辺地へ長く行ったままの人も多いからな。その人がどうした?」
「アインジーデルン修道院に寄った時に、その人の不思議な話を聞いて、その墓を参って来たんだ。妹はビュルグレンの人なんだって。アンナと言ったかな。知ってる?」
「アンナ……教会にいた修道女だな。彼女を知っているのか?」
 ブルクハルトは僅かに、しかし僅かならず驚いていた。
「そこで話に聞いただけだ。アインジーデルンの修道士がその人と友人だったそうなんだ。そこの修道院長が父さんを褒めていたよ。アルノルトも聖者だって絶賛を受けていた」
「聖者に見えるって言われてもねえ」と、アルノルトは苦笑いだ。
「そうか……お前達は無駄に遠出したわけではなかったというわけだな」
 歩き回っていたマリウスがやって来て言った。
「僕もいい旅だったよ。お城へ入って、ハルトマンとも友達になれた。自慢出来る?」
「ハルトマン?」
 アルノルトが補足して言った。
「ラウフェンブルクのお坊ちゃんさ。新キーブルク家の跡継ぎだそうだよ」
「それはすごい! 大いに自慢出来る!」
「うん! この剣もらったー。兄さんが盗賊殴って壊れちゃったけど……」
「そうか。それも武勇伝だな」
「ちょっと貸せ、直してやる。その前にどんな構造だ?」
 エルハルトがそう言って折れた木剣を手に点検し始めた。
「あっ。いけない! まだ馬を放したままだった。入れてくる」
 アルノルトは牧場へと走り出て行った。ブルクハルトも馬を見たいと、後から出て行った。
 外へ出ると辺りはもう暗くなっていて、馬の姿は見えなかった。
 アルノルトは叫んだ。
「グラウエス!」
 そして指笛を吹いた。
 すると、グラウエスが遠くからトコトコと歩いてやって来る。
「グラウエス! 良く来た。良い子だ」
 アルノルトはグラウエスを思い切り撫でてやり、手綱を掴んだ。
 ブルクハルトは後から歩いて来て言った。
「もう良く馴れているようだ。それがラッペルスヴィル家から頂いた馬か?」
「そうだよ。グラウエスって言うんだ。可愛いでしょう」
「暗くてあまり見えんが……少し小さいようだな」
「小さくてもここまで立派に走ってくれたよ。僕にはこれくらいの方がちょうど乗りやすいんだ」
「鞍をあげよう。放牧に乗って行くといい。しばらくは乗り慣らしておくものだ」
「そうするよ。もう一頭いるんだけど、どこ行ったかな」
 父が指笛を吹くと、もう一頭も近付いて来た。それは元々ブルクハルトの馬だ。
 そうしてアルノルトとブルクハルトは馬を馬小屋へと入れた。
「羊達は大丈夫だったかな?」
 アルノルトは羊の小屋を少し覗いて歩いた。小屋の中は暗かったが、羊達はアルノルトを見て寄って来て頻りに啼いた。
「懐いてるようだ。羊の世話にはフュルストに言ってシュピーリガンから若いのを二人送って貰った。しばらくは牧畜の教育も兼ねて家に住み込んでるよ」
「そうだったんだ。明日もその人が放牧する?」
「まあそうだが近場で済ましていたんだ。お前達の方が上手いから明日は遠くへ出て教えてやってくれ」
「わかったよ」
 父と子は小屋を出て家へと歩いた。
 道すがら、アルノルトはもう一つ話すべき事を思い出した。
「父さん。僕はずっとここで羊飼いの仕事をしてなきゃいけないものなのかな?」
「羊飼いの仕事は嫌なのか?」
「ううん。ここで羊飼いをしているのは好きだよ。ここを離れてさらにそう思ったよ。でも、世界はもっと複雑だった。もっと勉強するためには仕事を離れる事も必要でしょう?」
「お前はアーマンの子だ。それなりの勉強をしなければならない。共同体には人材もいるし、羊飼いに縛られる事は無いんだ」
「じゃあ、丁度いいかも! 実はチューリヒで帝国執政官のミュルナーさんの私学校へ来ないかと誘われているんだ。ルーディックも一緒にね」
「帝国執政官とまたどこで知り合ったんだ?」
「召喚の時にいたよ。王子側にだけど」
「あの方か!」
「今回の裁判を始めるきっかけからお世話になったんだ。リューティケルさんを紹介してくれたし、勝てたのも殆どはあの人のお陰だよ」
「そうだったのか。あの帝国執政官は別格だ。この周辺では国際争議の仲裁役に入る事もあるし、チューリヒは聖母聖堂があるから、その実この辺まで領しているからな。チューリヒは帝国自由都市だから評議会に裁判と自治の権利が与えられたが、それはまだ最近だ。帝国を代表した司法権を持ち、自治が正しく行なわれているかを後見しているのがあのミュルナーさんという事になる」
「そんな偉い人なの! それであんなに公正なんだ!」
「そうだ。ウーリの代理執政官とはわけが違う。だが帝国側の人なのは確かだから、多少対立があるがな」
「王側の人だって言われるけど、ものすごく公正で、自由民の味方なんだ。僕みたいな田舎者が王子に被害を被って困っていても相談に乗ってくれて、公正に裁判に導いてくれた。しかもお金は取らなかったんだ」
「噂には聞いていたが、やはり別格だ。あの方には王も一目置いているらしい。その方に習えるなんて畏れ多いくらいだ。こんな好機はそう無い。是非参加しなさい」
「こんなにすぐ認めて貰えるなんて思わなかったよ。ルーディックにそう返事するよ」
「ああ。ルーディック卿と肩を並べて学べるのも価値あることだ。それだけのものを自分で見付けて来たんだ。こうなるともう大人も顔負けだ。お前は目覚ましいほど成長した」
「アフラもすごく成長したよ。アフラも学びに行ってはダメかな?」
「アフラ?」
「アフラはエーテンバッハ教会に仮入学して熱心に勉強してた。ラテン語が少し読めるくらいになってたよ」
「ああ、帰りにそれは聞いた」
「この短い時間にすごい成長だ。先生達にも気に入られてね。エーテンバッハ教会に寄付もしたから、チューリヒに逗留出来ればまだそこで学び続けられるんだ。ミュルナーさんの私学校にも一緒に行ければそれもいいかなと思うんだけど」
「アフラにはまだ早いし、どうも危なっかしい。しばらくは外出禁止だな」
「夏の間は牛も羊も山の小屋に行くから、ここはいつも暇になるでしょう? 夏だけでも勉強に行かせる方がいいとは思うんだ」
「うむ。いい判断だが、アフラにはしばらく罰が必要だ。変に喜ばす事は出来んな」
「また悲しむ顔が目に浮かぶよ?」
「何も悲しませたいわけじゃない。しっかり反省すれば考えるさ」
「懺悔でもさせようか」
「懺悔? それもいいな」
 ブルクハルトは笑ったが、アルノルトは至って本気だった。
 そして家に戻ると、アルノルトは急にドッと疲れが出て来た。
 昨夜からの侵入者騒ぎでしっかり寝ていない上に、討伐隊の時も山を走り回っていれば、さすがに疲労が溜まっている。
 急に眠気が出て来て、マリウスと一緒に早めに就寝することにした。
 残ったエルハルトはさらに父と夜遅くまで話していた。
 


中世ヨーロッパの本格歴史大河小説として、欧米での翻訳出版を目指しています。ご支援よろしくお願いいたします。