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なにかを与え、なにかを与えられるということ。

歳を取ると、色々なものが変化していく。

僕はいま27歳で、まだまだ若いと言われる歳だけれど、たまにそういう小さなことに気づくことがある。

先週から実家に帰っていた。

実家には、父と母がいて、少し歳の離れた弟、妹がいる。

そうして家族の中にいると、どうしても何かを与えられ、何かを与えるという場面にでくわす。

毎日両親が食事を作ってくれる。僕が作るときもある。歯磨き粉やティッシュといった消耗品はもちろん必要だけど、わざわざ自分で買ったりはしない。

それは家の外でも同じ。
駅まで車で迎えに来たもらったり、食べたいものを買ったり。

あるいは家族じゃなくても、昔の級友や弟の友達と関わっていく中で、そういうものがみつかることも多かった。


こういうことをいちいち意識するのも変だ。しかも家族の中で。それはわかる。

たぶんそれは僕が都会の一人暮らしに慣れてしまったからなのかもしれない。

一人で暮らしていると、すべてのものを自分で調達する必要があるから。だからちょっとでも、節約だったり、断捨離だったり、コスパだったりを意識しなければならない。

でもそういうのって、少しさみしい気もする。心の貧しさ、みたいな。

僕は東京に出て、貧しい人間になってしまったんだ。


ただ、だからこそ、受け取れるものというのもある。

普段は意識していない心の枷が外れて、モノを使う。それはきっと贅沢なのだろう。浪費なのだろう。

だからこそ感謝したい気持ちになるんだ。きっと。僕はそれを与えられた、という感覚をはっきりと感じる。

なにもしなくても、生きていける。そういう場所にいることではじめて、外の世界を見に行こうという気力が湧いてくる。

ふと、思わずそんなことを考えてしまう帰郷になった。

あ、そうだ。
妹よ、またヘアオイル貸してね。


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