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#私を構成する5つのマンガ

(去年のと言えど、とても書きたくなったので!!!)

私は漫画に育ててもらった。冗談ではなく、漫画に育ててもらった。

飲み食い管理はもちろん当然親だけど、頭が漫画の脳みそなのである。

もちろん子どもの頃の夢は漫画家。子どもの頃と言ったけど、本当は今も漫画家になりたい。

だけど一コマ描いたらギブアップな人間だったもので、今のところ漫画を1作たりとも描けたためしがない。

漫画家は諦めることにする。無理。だけど漫画は大好き。

そんな愛と感謝の意を込めて、私の中のマスト5でありベスト5をここに掲げたい。

Dr.スランプ

子どもの頃、毎週末行っていたおばあちゃん家の2階。かつての父の趣味部屋。

部屋の床をも軋ませる大量の車のカタログと、天井まで山積みになったいつになったら作ってもらえるのか何十年もその時を待ち続けるプラモデルの箱。そして、父が学生だった頃の状態で、タイムスリップして現代に来てしまったような昭和の匂いの本棚。ドカベンや野球狂の詩と共に、堂々と並んでいたのがDr.スランプだ。

父に聞いてみたことがある。

「なんでこれ買ったの?」

そんな私からの素朴な問いかけに、父は恥ずかしそうに答えた。

「面白いかなあ、と思って」

面白いに決まってる。アラレちゃんやぞ。

そう、声高々に言い伝えたい。アラレちゃんはとてつもなく面白い。他に類を見ない漫画だ。鳥山明先生のそこはかとないギャグセンスを思う存分堪能できる。きっと令和の今読んでも面白い。

姉と私はアラレちゃんでできている、と言っても20%くらいは過言ではない。

強いアニメの主人公がいれば、「アラレちゃんとどっち強いのかな」。

アスファルトの道路を見下ろせば、「アラレちゃんなら割れるかな」。

交番を見れば、「アラレちゃん追いかけてきそう」。

赤ちゃん見れば、「もしかしたらターボくんなんじゃないか」。

何でも食べる子がいれば「ガッちゃんじゃん」。

生活、いや人生の随所にペンギン村が散りばめられている。

アラレちゃんは色あせない。いつの時代だっても可愛い。そして強い。面白い。

アラレちゃんは我が家の礎であり基礎であり物差しだ。

キーーーーンと両手で風を切ってマッハでペンギン村を走ってみるのがあの世に行ってからの夢である。

ちびまる子ちゃん

人生でたまにちびまる子ちゃんのエピソードと重なる瞬間がある。

それは大抵嫌なことだったりする。眼鏡が割れたり、忘れ物したり、些細だけど確かに嫌なこと。ちびまる子ちゃんを読んでなかったら、落ち込んでたかもしれないし、怒ってたかもしれない。

だけど漫画の一コマと重なる時、ゲラゲラ笑う場面になる。

国民的アニメ。さくらももこ。ちびまる子ちゃん。見たことのない人はいない、あれです。

おばあちゃん家から帰ってくる時、必ず家族で立ち寄るのがバイパス沿いにあるブックオフだった。ウィンと自動ドアが開き、一歩踏み入れたらもう個人の世界。4人家族は一瞬にしてバラける。

私が決まって向かうのが、りぼんのちびまる子ちゃんコーナーだった。そこでもっぱら立ち読みし、周りの目を気にしながらニヤニヤ笑う。

ちびまる子ちゃん、一話一話は短い。その短い数ページの中に、あれだけ笑いを落とし込めるってド天才だと思う。

歳を重ねてからも繰り返し読み、キラキラした目ではないのに、恋愛要素もないのに、絵も雑なのに、「話が面白い」それだけでこんなに国民に愛されるってすごい漫画だな、とその凄みを実感する。

老若男女問わず笑える瞬間をしっかりと捉えてるってこと。

さくらももこは一人で何個の笑いをこの世に生んだんだろう?
つくづく、すごいお方です。


潔く柔く

連載が始まったのは私が中学校3年生の時だった。これは、ハルタの死から始まる。

最初読んだ時、クラスの女子と見解が異なった。

あのセリフってこういうことじゃない?
実はこうだったんじゃない?

答え合わせしようにも、答えが分からず見解は平行線を辿る。

いくえみ作品はいつもそうだ。分かりやすいものの方が少ない。

思春期だった私が背伸びをしても、いくえみ綾さんが伝えたかったことの6割くらいしか受け取れてなかったような気がする。

そりゃあ、人生経験が圧倒的に少ない中高生には分かるまい。分かってたまるか。

あのカンナの悲しみが簡単に手に取るように分かってたまるか。そんな浅い話じゃない。

だけど、少しずつ大人になっていく時間の中で、たまにカンナの気持ちが突然手のひらに転がってくるように分かりそうになる瞬間がある。

あ、これか、と思えそうな時。

そういう時、グスッと罪悪感やら負い目やら情けなさやら、そういった負の感情に突然襲われる。

この物語には常にそんな悲しみが付きまとう。

その感情を分かりかけた時初めて、カンナがどれほど辛い想いを抱きながら生きてきたんだろう、とやっと漫画の7割くらいを理解できた気がするのだ。

20年経ってやっと7割。遅。

でもまたこれからの人生のどこかで、ヒントを手に入れる経験をし、いくえみ綾さんがこの漫画を通して伝えたかったことの9割近くは理解できる人間になっていくのではないだろうか。

と、期待したい。


恋愛カタログ

この漫画にはたくさんの恋愛模様が出てくる。
だって「恋愛」の「カタログ」だから。

初めて読んだのは小学校5年生くらいの頃だったと思う。実果と高田くんの関係が揺れかける場面からの割り込み参加。

それまで読んできた漫画といえば、幼なじみとのドキドキだとか学年トップの誰だとかそういう自分とはかけ離れた世界のストーリーばかりだったから、恋愛カタログは新鮮だった。

だって普通の高校生同士が合コンで知り合うところから始まるのだから。

恋愛カタログは読者を置いていかない。女子のみんなが、実果でありユウちゃんでありアスカさんであり笹錦さんになれる。どこかに必ず共通点を見いだせる。

女の子の絶妙な経験やコンプレックスや不安やトキメキを、丁寧にすくい拾うように描かれているのだ。

それは出会いからできちゃった婚まで、34巻かけて、みんなが辿る恋愛という道のりを一人の女の子が一緒に悩みながらゆっくり歩いていく。

小学生だった私は、やがて中学生になり、高校生になり、実果の気持ちに近づいて、そしていつしか連載中であるにも関わらず追いついてしまう時が来た。

ちょっと人生で愕然というかキョトンとした瞬間。

まさかこの時が来てしまうだなんて思ってもみなかった。実果はずっと、常に私の恋愛の先輩で居続けると思い込んでいた。

それでも、私は実果と高田くんの丁寧な恋の行方を追い続けた。
最終回を見るまで、私は死ねない。万が一私が余命わずかになってしまったら、作者・永田正実さんに「結末だけ教えてください」って手紙を書こうと、かなり本気で思っていた。

だけど私は幸せなことに、健康体をもってその結末を見届けることができた。

良かった。恋愛カタログとともに成長した一人の人間として、ここに夢達成。ありがとう。


天然コケッコー

私はド田舎生まれド田舎育ちである。
天然コケッコーのそよもまた、ド田舎生まれド田舎育ちである。

これは、田舎娘そよと、東京からの転校生大沢くんとのラブストーリー。

初めて読んだのは高校2年生の時。
ド田舎の本屋にそれは並んでいた。

どうして手に取ったのか今でも分からない。でも、田舎娘というところと東京への憧れから手に取ったんだと思う。

ド田舎と思春期が掛け合わさると、こんなにも爽やかで繊細で不安定で美しい物語になることを初めて知った。

私は読んだ瞬間からこの世界のトリコになった。

「そよ」と「大沢」、何もない田舎の自然の中を風が吹き抜ける透明感。含みを持ったセリフたち。個性豊かな仲間に家族。憎めない田舎町。そのどれもが絶妙なバランスで描かれ、魅せ方を知っていて、美しい。

もちろんストーリーも面白い。

「天然コケッコー」なんてタイトルも憎いほど素晴らしい。これは「天然コケッコー」以外の何物でもない。

ポンと何もない町に突然置かれたような空虚さに人情が絡まって、なんともあたたかい物語を紡ぎ出す。

東京から来た大沢に、田舎のあたたかさが絡みつく。

こんなにキレイな漫画は、後にも先にもこれだけです。故郷のような漫画。

生まれ育った田舎町を少し誇らしく思えました。

まあ、あんなにキレイな田舎町ではないんだけど。

まとめ

漫画を読むということは、立派な読書であり、人生経験であり、身となって蓄積されていくものだと、今回記事を書いて思った。

だって私は漫画を読んでこんなに大きくなったし、人生の要所要所、ふとした時に一コマの主人公の感情とリンクするのだから。

彼らの泣き笑いが、私の人生に染み込んでいる。

私は彼らと大きくなった。

これからも私の人生を楽しく愉快に幸せに彩り添えてくれますように。

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