#9 こえろ、ミジンコ
「Dr.Daphnia is mad about JUN-MISS(ミジンコ博士は準ミスに夢中よ)」
李さんが席に着くなりそう言った。
事の発端はこうだ。
ぼちぼちお昼にするか、研究室にそんな気の抜けた空気が流れ始める12時前。環は少しばかりパソコン周りを整理し、席を離れる前に念のためデータを上書き保存、時計で時間を確認しつつちらりと隣の理仁に視線を投げた。
理仁はイヤホンで一体何の音楽を聴いているのか、軽く顎でリズムを取りながら書いたばかりの論文を推敲中。どうやらディスプレイ以外は全く目に入らない様子。
仕方ない、今日は一人で学食でも行くか、と諦めて財布を手にした時、ドアの方から「失礼します」と控えめな声がした。
研究室にいた全員が声の方を見る。理仁以外。
やはりこの透明感溢れる風のような声の主は、かの準ミス・勝田エリーだ。彼女は彼の姿を見つけると躊躇う様子もなく研究室に入ってきた。なんてクラゲのような美しさ。ツヤツヤの髪が弾む弾む。薄暗いミジンコ研究室が一気にランウェイに早変わり。
理仁が自分の世界に入りこんでることを気にも留めず、勝田エリーはその肩にポンッと両手を乗せる。環にはできなかったやつである。案の定理仁は驚いて振り向きイヤホンを外した。
「もし良かったら、お昼一緒に食べたいなと思って」
なんと積極的。
李さんがドア付近からちらりと環に視線を投げる。
”彼女、なかなかやるじゃない”
”そうなのよ、彼女クラゲだから”
環は二人の背後を通り過ぎる。少し戸惑いを含んだ理仁と目が合ったがスルー。ごゆっくり~。
研究室を出たところで、李さんが環の肩に手を回してきた。
「ジュンミス、スゴイ」
彼女の積極性に圧倒されてるようだ。環は「ya(そうなのよ)」とだけ返す。
「ゴハン、タベレバ、ゲンキニナル」
「Ya,I think so too(ほんとよ、私もそう思うわ)」
そんなんあるかよ。しかし大好きな理仁を準ミスクラゲに奪われてしまった今、食事を摂ることでしか自分自身の体重を支えられそうにない。
環はそのまま李さんに肩を抱かれ学食に向かった。
◇
学生が溢れ返る昼の学食。なぜだろう、5年前に改装したばかりの全面ガラス張り光差し込む明るい空間なのに、昼夜研究に追われてる人間の席だけ薄暗く沈んだように見える。疲れ、もしくは年齢的なものだろうか。李さんと環は窓際の席に根本さんとガルシアさんの姿をすぐに見つけ、そこに向かった。
「Dr.Daphnia is mad about JUN-MISS(ミジンコ博士は準ミスに夢中よ)」
李さんが席に着くなりそう言った。
「mad」はいくらなんでも大げさすぎやしないか、とも思われるが、チャーハンを食べていたガルシアさんは頭をパーンと叩いて「Oh,my GOT(なんてこった)」と呟く。
李さんは泣き真似をしながら環の頭を撫で「Ohhhhh,カワイソウニ…」と慰めた。
一番冷静な根本さんが空いている斜め向いの席を指し「まあ、座って」と環を促す。環はそこに腰を落とすと、一気に尻が鉛のように重く感じられ動けなくなった。
今頃、何を話してるんだろう、彼らは。
お昼ご飯なんて食べる気になれない。しかし論文書きはエネルギーを消耗する。食欲なくとも食べるのだ。でないとぶっ倒れてまうぞ、食べろ、環。
環は重い重い腰を上げ、牛丼を注文しに行ったが、その味はしなかった。
◇
腹を満たしゾロゾロと一行で研究棟に戻ってきた時のこと、階段の上から声が響いてきた。
「好きです」
静かな廊下を風のようなクリアボイスが襲った。もはやそれはハリケーン。いかにも、この声の主は我らがJUN-MISSである!一行は身を潜める。
「もし良かったら、私と付き合ってくれませんか」
なんてこと。一行はDr.Daphnia(ミジンコ博士)が告白される場面に出くわしてしまったのである!
OH,MY GOT.自然と全員がこめかみを押さえる。
環は眩暈がした。
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくないけど聞きたい。ああ、でもいやだ、いやだ、理仁が準ミスと付き合うなんて絶対に嫌・・・!
もしかしたら3年間積もりに積もった恋心はここで爆発し灰塵となるかもしれない。そしたら、私はただの奥田研究室の掃除要員。
神よ、二人の中を引き離して下さい。
環はアーメンと静かに目を瞑り、恋の運命を次の瞬間に委ねた。
「ごめん」
理仁の声が廊下に低く響く。
ごめん。
李さんとガルシアさんが拳を震わせ目を見開く。
・・・Yes,Yes,YES!!!
ワールドカップで優勝が決まった時のように、地響きとなって伝えられる喜びを腹の底で噛み締める。勝利の女神は、ミジンコに振り向いた!
・・・かのように思えた。
しかし、「まだ、勝田さんのことよく分からないから」と低い理仁の声が続く。
「付き合うとか、付き合わないとか、今はまだ判断できない。だからもうちょっと、このままで」
なんという歯切れの悪さ。キープするならキープするでもっと言い方もあるだろうに、この男、恋愛に不慣れ過ぎて言い回しというものを身につけてない。
李さんはため息を吐き、「I don’t get it(意味分かんないんだけど)」と呟く。これには環も全くの同感だ。ガルシアさんと根本さんも首を傾げた。
「分かりました」
勝田エリーの憂いを帯びた声が響く。
「じゃ、また」という声と共に足音が階段を駆け下りてきたので、一行は急いで階段下の掃除用具スペースに隠れた。
颯爽と研究棟を後にする勝田エリーの髪がなびく。その後ろ姿には、まだ負けを認めない強さがあった。
理仁は勝田エリーを振らなかった。
なんなん、あのミジンコ男、と環以外の3人は微かに怒りを覚えたが、環は素直に落ち込むのであった。
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