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#11 こえろ、ミジンコ

カウンター席と8つのテーブル席からなるイタリアンダイニングバー。薄暗い店内とは対照的に実に賑やかだ。足の届かない華奢なハイチェアに浅く腰掛け、あーでもない、こーでもないと話に花を咲かせる。

本日もやはり優奈は隅々キマっていた。質のいいトレンチコートに明るいグレーのカシミアのストールを羽織って現れた彼女を見て、環は自分の安くて軽くてそして隙間風吹き込む寒いダウンを後悔した。

相手は優良企業の研究職で、自分は今もなお学生なのだから仕方あるまい。

光を跳ね返すグラデーションのまぶたを見る。美しいのに、さらに化粧する必要があるんだろうか。これは格差拡大では?

「何かあったの?」

優奈がくるんとしたまつ毛を上下に見開き聞いてきた。

「理仁が美人に告白された」

環が言うと、「ええー」と指先を口に当てて驚く素振りをする。

「そんなことある?」
「その子さ、学祭で理仁に話しかけてきてさ、その後のミスコンで準グランプリとったの。英語とドイツ語と乗馬が得意なんだって」

環がガーリックオイルをたっぷり絡めたエビを頬張りながら愚痴のような口調でたれ込むと、優奈はさらに驚いて目を見開いた。口の中でエビがプリプリと言う。美味。グソクムシよりやっぱ美味い気がする。

「勝ち目ないじゃん」

また優奈が得意の凶器を突きつけてきた。彼女との会話は常にフェンシングスタイルだ。本人はまったくそのつもりはないのだろうが、隙あらば攻撃しようとする。

「でもね、この間デート行ったの」
「誰が?」
「私と理仁」

「うんうん」と優奈がピザをちぎるとチーズが皿にとろけ落ち、優奈の白くて長細い指がそれをすくう。

「その時は、私のこと『好き』って言ったの」
「えー理仁が?」

少し誤解を招く表現のような気もするが、環は堂々と「うん」と言いながらブロッコリーを頬張った。

「でも、準ミスの子のことも振らなかったの。付き合ったわけでもないんだけど」
「はあ!?理仁の分際で、女をキープしてるよ、それは!」

優奈の大きな目が見開くと白目の面積が増え、それだけインパクトは増す。優那は苛立つ気持ちそのままに勢いよくピザにタバスコをシャカシャカと振りかけた。

「うんうん、それは理仁くん、女をキープしてるね」

突然背後のテーブルから声が聞こえ、環はハッとして振り向く。透明のついたての向こうから、懐かしい顔がひょこっと飛び出した。

「久しぶり」

研究室の1個上のOBである高尾だ。院を出た後、化粧品メーカーに就職したはずだ。

なんということ、声の大きい二人の会話はすべて隣のテーブルまで丸聞こえだったのだ。

「今、友達と飲んでてさ」と言いながら、優那にもそつなく「どうも」と軽く会釈する。高尾はミジンコ研究室では珍しく高い社交性に富み、常に女の噂が絶えない人物であった。

「まだ理仁くんのこと好きだったんだね」

そう言って笑う。どうやら2年以上も前から環の片想いは研究室内で有名だったようだ。開いた口が塞がらない。

「っていうか、今M2(修士課程2年)?」
「いや、D1(博士課程1年)です」
「えっ、ドクター?」

高尾は明らかに驚いた。

ああ引いてる、確実に引いてる。

「理仁はもうこのままミジンコの研究で突っ走るんだろうなって思ってたけど、環ちゃんもそんなにミジンコ好きだったの?」

そう言ってる途中で気付いたようだ、高尾はハッと表情を変えた。

「もしかして、ミジンコじゃなくて理仁くんが好きで残ったの?」

図星過ぎて咄嗟に返答できない環に代わり、優奈が「そうでーす」と答える。

「人生棒に振ったね」

高尾さんが唖然として零す。

痛い。痛い痛い、分かってます。

環はエビをフォークで突き刺し、なんならもう1匹突き刺し、2匹丸ごと召し上がる。噛み切るごとにエビがプリプリと口の中で暴れる。

だからドクターであることはバレたくなかった。不純な動機で残ってる人間としてはあまりにも身勝手だが、環はモラトリアム人間だと思われることを非常に嫌う。

環の名誉のために言いたい、環は働くことを先延ばしにしてるわけではなく、恋愛成就のために博士課程に進んでるのだ。頑張れ環。

高尾は一緒に来てた友人・浅間と料理も酒も引き連れて、この環のテーブルに席を移してきた。どうやら浅間も同じ工学部の人間だったらしいが、高尾とは異なりかなり地味な印象である。

高尾たちが持ってきた料理が狭いテーブルを一層狭くする。誰も手をつけようとしないお通しのオリーブが倍に増えてしまい、人の良さそうな浅間が気を遣ってるのかオリーブばかりを食べ始めた。

「『好きだよ』って恋愛対象以外にも言います?」 

環が聞くと、高尾は思考を整理するように目の前の宙を見つめながら応える。

「俺は恋愛対象以外には使ったことないな」
「普通そうですよね。理仁は私に『好きだよ』って言ったんです。でも他の子から告白されても『まだよく分からないから』って言って振らなかったんです」

またも環は誤解を招くような発言をしたが、高尾は素直にうんうんと頷き「そうだねえ」と切り出した。

「俺、理仁くんじゃないから分かんないけどさ、理仁くんも自分の気持ちが整理できてないんじゃないかな」

黒いギャルソンエプロンを腰に巻いた店員が高尾の注文した一本のワインを持ってきて、慣れた手つきで栓を開けると4本のグラスに注ぐ。トスカーナ地方の赤ワインとのこと。とはいえ、環には味の違いなど「飲みやすい」「飲みにくい」程度しか分からないが、優奈は大袈裟に「美味しー」と褒め称える。

店員がテーブルを去ると「キープしてるっていうより」と高尾が話を再開した。

「環ちゃんのことが、好きだっていうのは本心だとは思うよ。普通、好きでもない女の子のこと、デートに誘わないからさ」

優奈は納得いかない表情で首を傾げながらワインを口に含む。優奈は決して環に生優しい言葉はかけないが、高尾は違うようだ。求めていた言葉をかけてもらい、環の心はほろほろと解された。

「準ミスと会い続けるの、嫌です」
「それは本人に言わなきゃ。ちゃんと言ってみればいいじゃん」

高尾はまたも優しく言ってワインをクイッと飲む。浅間という人間も同様に優しい人種のようで、先ほどから言葉数少なめにそっと同調するように頷いている。常に優奈とばかり遊び、叱咤されることに慣れ切っていた環にとって新鮮な時間だった。

「そうだ、連絡先教えてよ。別に進路のことでも恋のことでも話せたらいいし」

最後に高尾が言った。こういうことをサラリと言えてしまうスマートさは、やはりミジンコ研究室では非常に珍しい。

優奈は日常茶飯事なやりとりだろうが、環は慣れていない。「どうすればいいですか」と指示を仰いだ。

連絡先を教え合った後、高尾達の方が先に店を出た。

「絶対今の先輩の方がいいじゃん」

2人が去りもの寂しいテーブルに変わった後、優奈がグラスに残ったワインを舌の上で転がして言う。

環はおだてられるとすぐに調子良くなってしまう節がある。

だから優奈は甘やかしたりしないのだが、高尾はそのことをつゆ知らず優しい言葉を掛けてしまった。環は今根拠のない自信を身につけた。

言うんだ、勝田エリーにもう会うのをやめてって言うんだ。

環の心の中はそればかり。ああ、紙粘土のハートに薄っぺらいメッキが塗りたくられる。強そうに見えるハートがまた蘇ってしまった。


#12

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