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#8 こえろ、ミジンコ

足元の間接照明だけで照らされた暗い館内。ごつごつとした岩のような壁が二人を囲む。そう、ここは深海水族館。

「やっぱりさ、体が透明のものに惹かれるよね」

目の前を通過した透明の生き物を見て環は言う。クラゲ?いやこれはクラゲではない。

「ああ、サルパ?」
「知ってるの?サルパ」
「知らないの?サルパ。海のプランクトンを食べつくすホヤの仲間」
「何でも知ってるね」
「サルパは昔から知ってたよ」

理仁は飄々と答えながら、青い照明の中を進んでいく。

今日の理仁はさすが違っていた。首から一眼レフのカメラを下げ、A4がすっぽり入る頑丈そうな黒いリュックを背負い、中にはメモと筆記用具と印刷した下調べ用オリジナルしおりなどもろもろ入れている。

しおりというのは公式サイトから持ってきた展示マップと生物紹介、調べたいことメモなどをふんだんに盛り込んで分厚く太り、当然のごとく環の分も印刷されていたので、朝一番に環を引かせた。

「深海に生きる微生物って培養するのが難しいらしいよ」

そんな理仁の情報は環には今全く入ってこないが、理仁は構わず「うちの大学じゃ無理だね」と研究も視野に入れかけた口調で言う。

もしかして幻想ナイトリアムでもこうだったんだろうか。それならば勝田エリーは実につまらない思いをしたのでは、と心配になる。

目の前を、おじさんの顔した深海魚が睨みつけながら通り過ぎていく。

「そう言えばなんでミジンコなの?」
「それを今聞く?」
「ちゃんと聞いたことあるような、ないような」

理仁が「んー」と考えている間にも、かの深海魚は水槽を大きく一周し、また懲りもせず近づいてきた。

なんで今睨まれないとあかんねん、ジロジロ見てくんなよデートしてんねんから。

環も睨み返すと満足したのかやっと背を向けスイースイーと水槽の奥へと消えた。理仁の口が開く。

「キレイさと、可愛らしさと、気持ち悪さと、謎がギュッとあの小さな個体に詰まってて面白いなって。ミジンコはずっと見てられるんだよな」

遠く理解に及ばない理仁の言葉はゆらゆらと気泡に乗り青暗い頭上の水面へと消えていく。

「クラゲもずっと見ていられるよ、私」
「クラゲはキレイ過ぎるよ、眩しくて見続けられない」

そう言う少し寂しげな表情を視野の端の方で感じ、環はハッとする。

「それって、クラゲじゃなくて勝田エリーのこと言ってるんじゃないの」

心がヒリヒリ痛むのを押し殺して環が口にすると、理仁は少し固まった。図星だ。

そしてゆっくり話し出す。

「勝田さん前にすると緊張するし、自分でもどうしたらいいのか分からなくてフワフワした感じになる、あの人」

そう言う顔はまるで初恋を覚えた少年のようで、環は胸騒ぎを覚える。

アンコウが奥の方からノロノロと出てきた。歯並びが悪いのか口をあんぐりと開けたまま、環を嘲笑うかのように行ったり来たりを繰り返す。

オスったら私に夢中なのよ、すーぐ噛みついてくるんだから。

なんですと。メリ、メリメリメリ・・・鋼に生まれ変わったはずのハートはメッキが剥がれ、紙粘土様の素材を露わにし始めた。こんなに脆いものだったとは。

途中館内のレストランに入り、理仁はグソクムシの身が入ってるグソクムシカレーを、環はクラゲラーメンを注文した。

「よくそんなの食べられるね」

目の前で次々とグソクムシカレーを口に運ぶ理仁に、環は唖然とする。

「なんで?美味いよ、食べる?」
「ダンゴムシだよ?理仁が今食べてるの、ダンゴムシの仲間だよ?」
「じゃあ、ダンゴムシも美味いかもね」

大きな一口を頬張りながら言う。信じられない。ダンゴムシも焼けば、あの表面を覆う黒い甲殻から香ばしい風味が溢れ出すとでも言うのか。

一方、環はクラゲラーメンだ。クラゲなんぞいくらでも食べたことがあるだけに希少度は落ちる。醤油ラーメンのスープの海をただ刻まれたクラゲが漂っているだけだ。

「絶対クラゲよりグソクムシの方が美味しいよ」

理仁はそう言って一口分のカレーをよそったスプーンを「はい」と環の口に近づけてきた。ゴングが鳴る。

さあ、始まりました、グソクムシと間接キッスの対決。グソクムシと言えばダンゴムシの仲間ということですがどうでしょう。

ええ、そうですね、あの足が何本生えているか分からない、ダンゴムシ、ゾウリムシの仲間と考えると分かりやすいかと思います。食べることができるかとなると、こればかりは見た目が与えるイメージがどうしても悪いものですから大変難しいでしょうね。

しかしここは大好きな理仁との間接キッス。この気持ち悪さを間接キッスという憧れのシチュエーションが乗り越えることができるかどうかがこの対戦の見どころとなっております。味は・・・

「食べないの?食べてみなって、騙されたと思って」

なんと!ここでまた一歩スプーンを近づけてきた!間接キッスが優勢か、間接キッスが優勢か!だけどまだ環の心は定まらない!ダンゴムシ、ゾウリムシ、グソクムシ、彼らを頬張るその勇気がまだ出ないか!?

乙女心がシチュエーションを複雑にする。

ええい。環は面倒臭くなりグソクムシも間接キッスも何もかもを一切忘れ思い切って口を開けると、そこにスプーンが突っ込まれた。

次の瞬間、ふわっとカニのような香ばしさが広がる。予想外の美味しさ。エビ以上カニ未満。

「うまー」

溢れ出す環の感想に、理仁は「ね、うまいでしょ」と満足げに笑った。

勇気を持って一歩足を踏み出せば、エビ以上の美味しさも間接キッスも両方手に入れられるということだ。一挙両得。

しかしどうやら間接キッスに関して言えば理仁は何も意図してないようである。ただグソクムシへの偏見を取り除きたかった、そのピュアな心がもたらした行為と言えよう。

勝田エリーはグソクムシを食べることができただろうか。今の私ならエビを食べるくらいならグソクムシを食べる。どや。

環は誇らしげにグソクムシを飲み込んだ。

午後2時、二人は海沿いの国道から一本横道に逸れたところにあるカフェでコーヒーを飲んでいた。古民家を改造したというそのカフェの縁側からは海を臨むことができ、静かに過ぎていく昼下がりを堪能できる。

「俺はまだ帰りたくないんだけど」

水族館出たところでそう理仁は言った。環はその一言に多大なる期待を寄せたが、どうやら「滅多に来れない場所だからまだ帰りたくない」という土地への執着心だったようだ。すぐ近くでお茶をしよう、となったのである。

「来年学会かー」

環は項垂れる。どこにいても何をしてても、例え太陽を反射してキラキラ光り輝く海を眺めながらコーヒーを飲んでても、付いて回るのは論文と学会である。

論文は学術雑誌「クアンタム」に投稿するのが目標であり、学会は来年2月に京都で行われる国際学会に焦点を当て同時進行で準備が進められていた。今は常に英語という課題が付きまとう。

「やだやだやだやだ」

環は頭を抱える。逃げ出せるものならば逃げ出したい。迂闊に博士課程という道に進んでしまった大バカ者の結果がこれである。

就職していればこんなプレッシャーと戦うことはなかったのだろうか、いや、就職してたら就職してたでプレッシャーとの戦いはまた別にあっただろう。

狭間で苦しむ。実に愚か。

「でもさ」と理仁が切り出した。

「環って偉いよね」

はい?カプチーノを飲もうとした手が止まる。

「環の能力も知ってるからさ、逆にすごいな、頑張ってるなって俺いつも思って見てるよ」

理仁は笑いを堪えながらも、たまにフッと笑いをこぼしながら言う。非常に失礼と言えば失礼なのだが、環は予想外の角度からの褒め言葉に言葉を失う。

「嬉しかったよ、すごく。ああ全国にも同じ志持った人間がいたんだなーって。環がドクターに来てくれて、すごく嬉しかった」

何をかいわんや。ミジンコなどに1mmたりとも興味を抱いた覚えはないが、ただ恋心に正直に行動した結果、「能力は劣るけどミジンコに対する探究心は誰にも負けたくない」と思われてたらしい。

「いつも最後まで残って論文打ってるし、俺、環のそういうとこ好きだよ。うん、環と一緒にいる時間も好きだし」

理仁が笑顔を向ける。

「これからも俺とよろしくしてください」

え?今私告白された?違う?好きってそういうことではなく?よろしく?何のよろしく?ミジンコ仲間としてですか?

まさか理仁と一緒にいたくて研究室に最後までダラダラ残っていた行為が、図太い度胸で論文書いてる姿勢に捉えられ評価されるとは。

「うん、よろしく、足引っ張ると思うけど」

環は冷静な姿勢を保ちカプチーノをやっと飲む。

「俺が引っ張り上げるよ」

理仁がそう穏やかに微笑む一方で、環の脳は混乱を起こす。

どういうこと?今のなに?好きってなに、好きってなに、男から女に言う好きってラブですか。オスからメスへの求愛行動ですか。タコのオスはメスに自分の吸盤を見せつけるらしい。え、私今吸盤見せつけられた?そういうこと?

いや待て、さっきクラゲもとい勝田エリーを思い出した時の切ない顔の心は何。あんな顔初めて見た。いやでも、彼は今私に好きだと言った。

どっち?どっちどっち?

#9へ続く

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