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幸せを感じることは人生において一番重要ではないという話

先日、友達と会話した時に衝撃を受けた。

「大手企業でそこそこ安定した地位についてぬるっと仕事して『幸せ』を感じられるって羨ましいんだよね」
「絶対飽きちゃう」
「それで満足はできない」

そう話す彼らはベンチャー企業の創業者だった。

世の中には溢れる「ささやかな幸せ」に彼らは振り向きもしない。

「無理だなあ」と言う。


オレンジデイズで櫂と沙絵はこう言っていた。

「生活するために働いて、その帰り道に綺麗な夕焼けが見えたとして、私はその夕焼けを見ただけで、幸せって思えない」

「ケイタは平凡な生活で十分幸せを感じられるし、障害はないけど才能もない。でも沙絵はそうじゃない」

私はずっとこの場面が(全てが、だけど)忘れられない。

綺麗な夕焼けを見て感動するたびに思い出す。

ああ、沙絵はこれを見ても「幸せ」って思えないんだな。

どっちがいい人生なんだろう。

足元に咲く花で心満たされる人生と、遥か遠くに咲き乱れる花を目指して走り続ける人生と。


三宅香帆さんが「幸せ」について問いかけた記事だ。

私は冒頭でぶったまげた。

「でもさ、別に幸せになりたいわけじゃないんだよね」

でもさ、べつに、しあわせに、なりたいわけじゃ、ないんだよね?????

え、そうなの!?!?!?

みんな幸せになりたいんじゃないの!?!?!?

幸せな人生を歩みたいんじゃないの!?!?!?

コペルニクス的転回。

だから頑張ったんじゃないの!?!?!?

そしてふと気付く。

「幸せ」は目的じゃないんだ、あくまで本来の目的を目指す過程で手に入れる産物でしかないんだ、

彼らにとっては。

そう、彼らにとっては。

全人類にとって、平凡な人間にとってはどうしようもない。

「人生の目標」と言われても「無難に人生を生き終える」くらいしかない我々にとっては、「日々の生活に転がってる小さな幸せ」を拾い集めて「人生の意味」を感じるしかないのだ。

彼らとの違いはここだ。

「人生の目標」があるか、ないか。

そして彼らは間違いなく、「痛みに強い」。
今までたくさんの努力を重ねることが当たり前になってきて、「苦労」「苦しい」は当たり前。「それがなかったら達成しないじゃん?」と思ってるのだと思う。

一方で、目標がなく生きてる我々にとっては「苦労」「苦しい」は「苦」でしかない。

筋トレの先に美しいボディーを思い描けているか、ただの苦行でしかないか。

目標がある人はそのために頑張れるメンタルを持っている、その才能がある。

そこが、何かを成し遂げてる過程に生きる人間と、老後の2,000万問題のために生きる人間の間に横たわる大きな大きな溝なのだ。

結果、「幸せのために生きる」というぬるっとした目標になってしまい、さらにそれを簡単に手に入れたいがために夕焼け見て感動して、「ああ、この人生はいい人生だ」と自分を納得させる。

夢がある人、没頭できる人にとっては「今幸せか?」なんて一番重要ではないことなのかもしれない。

ああ。


一方で。
「苦しい」ことと「価値がない」ことはイコールじゃないよ、と伝えたい優しさも感じる。

今公開されている「夜明けのすべて」は「普通の生活を送ることが苦しい2人」の物語だった。

この映画はタイトルにも絡んでくるが、人生の「夜」にスポットを当てている。

辛く苦しい時期にも、ちゃんと価値がある。

何もできない状況でも、ちゃんと価値がある。

「幸せ」じゃなくても、ちゃんと価値があるんだよ。その時間には意味があるんだよ。

太陽が出てる昼間だけがすべてじゃない。
夜も含めて人生だし、夜には夜の価値がある。

夜明けのすべて、原作とともに映画もオススメしたい作品だった。


さて、なんだかあたたかく終えられたところで、私はコタツでニマニマ本を読みながら「幸せだなあ」なんて言っておきますか。

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