「夫」という生き物はなぜ死を願われるのか

この世の中には「夫」という生き物がいる。
あなたはこの「夫」に何を連想するだろう。

いついかなる時も優しく、働き者で、思いやりがあり、我が子を共に育み慈しむ、大切なパートナー、そしてこの世で最も愛すべき人ーー。
そう思い描いた方は、どうかブラウザバックしてほしい。この先は地獄である。今ここで我々が出会ったことは綺麗サッパリ忘れて、どうぞお幸せに。足元お気をつけて。

そうではない方。ようこそ地獄へ。歓迎します。
なぜなら我々は恐らく「夫」という生き物に対して大方同じ思いを抱いているであろう同志だから。

朝は夫の脱ぎ散らかしたものや食べ散らかしたものを片付けるところから一日が始まり、日中は孤独な育児に追われ、夜になれば「いただきます」も「ごちそうさま」も言われなかった飯を下げ食器を洗い、風呂を沸かす。
ようやく子どもを寝かしつけ一日が終わる頃には心身ともに落武者のようでもう何の気力も起きないものだが、そんな我々とは対照的に嬉々として夜中までゲームをする彼ら。もちろん寝ている家族への配慮なんぞは一切なくボイスチャット機能を使うし、その間子どもが泣こうが喚こうが基本的にノータッチである。

休日になれば家庭での腰の重さはどこへやら、己の趣味に全てを費やし、家族を顧みることはない。子どもをどこかへ連れて行ってやろうという優しさなど皆無で、そこにいるのはひとり遊び疲れて一日中寝室に引きこもる独身気分おじさんだけである。

ため息を吐こうが、いくら訴えかけようが、我々の叫びが届くことはない。
そんな地獄の日々を積み重ね続けて何年、或いは何十年。

春になればこの桜の木の下に埋めてやろうかと思いを馳せ、夏になれば頼むからお前もナスかキュウリに乗って行ってくれと願い、秋になればこの葉をお前の血で真っ赤に染めてやりたいと憎み、冬はまたこいつと年を越してしまったと絶望する。

そんなふうに24時間365日、絶える間も無く我々の心身を腐食し続け、来る日も来る日も死を願われる生き物、それが「夫」である。

もちろん、夫という生き物も我々妻という存在に対して「とっととくたばれクソババア」と日夜思っていることだって分かっている。
子どもを、家庭を、仕事を、経済的理由を、手続きの煩雑さを、様々な背景を複雑に絡み合わせ言い訳にして夫から離れない己の怠慢さも自覚している。己の無力さなど己が一番良く知っている。

だからといって人の心を、家庭を平気で踏み躙り、自分一人だけのうのうと快適に暮らす奴らを前に、何かを思うことは間違いだろうか。
選んでしまった自分が悪いから、自分が無力だからと膝を抱えて泣き濡れることが正しいことだろうか。
人を人とも思わぬような態度や言葉を受け入れ続けることが美徳だろうか。

少なくとも我々の親は娘がそのように生きていくことを望んでいるだろうか。あるいは自分の子がもし将来そうなってしまったら我々は「お前が悪い、甘んじて受け入れよ」とでも言うだろうか。答えは否である。

日陰でひとり泣く「妻」たちよ、こんなところでくらい、本音を語ったっていいじゃないか。
どうせ日常へ戻れば無理にでも気丈に振る舞わなくてはならないのだ、こんなところでくらい、いい子でいなくたっていいじゃないか。
傷つけられたぶん、こちらも自分勝手にわがままに愚痴をこぼしたっていいじゃないか。

こんなところでくらい、願わせてくれ。


はよ死ね。


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