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じいちゃんの死のそばで考えたこと

先週、じいちゃんが死んだ。

腰やら肺やらを痛めて病院にいたじいちゃんが死んだ。
コロナで何年も会えていなかったじいちゃんが死んだ。

亡くなった、と書かないのは、
この折に「生」と「死」に向き合ったからだ。
これは、その手記である。

1. じいちゃんと私

お経と木魚の音の中、私はじいちゃんについて回顧した。
脳裡に浮かんだのは、幼い記憶だった。

公園で花火をしたこと
トライアルに行ってコインゲームをしたこと
スイカを食べたこと
元気?と聞けば、「腰が痛ぁい」と言ってたこと

物心がついた頃には、ほとんどの祖父母が亡くなっていた私にとって、
じいちゃんの存在は大きかったのだ。

そして、コロナだから面会ができないことを理由に
どうにかして会おうとしなかった自分を責めた。
電話くらいはできただろう。

せめてもの救いは、2ヶ月前に、
じいちゃんが参加できなかった結婚式の写真と手紙を
父親伝いに渡せたことだ。病室に手紙があったから、
読んでくれたんだと安心した。

2. じいちゃんと妻

コロナのせいで、妻は一度もじいちゃんに会えなかった。
ずっと会いたいと言っていたが、ついには叶わなかった。

渡した手紙で2つの報告をした。

無事に結婚式ができたよ。
もうすぐ「ひいじいちゃん」になるよ。

どうか病室で一人戦っているじいちゃんの、
生きる希望になってほしい!
2人の赤ちゃんを見せたい!
その思いも叶わなかった。

ただ、妻は、
冷たくなったじいちゃんに「はじめまして」と優しく言い、
棺に入れる手紙に「元気なひ孫を生みます」と力強く書いた。
そんな彼女を見て、この人を選んで本当によかったと思った。

3. じいちゃんと赤ちゃん

死後、すぐに駆けたのは私たち2人と母。
手を合わせ、涙も枯れ、あとから来る父や弟たちを待つ間、
霊安室では、母と妻が赤ちゃんの話しをしていた。
「エコー写真可愛かったねえ」
「男の子かねえ、女の子かねえ」

その様子と静かに眠るじいちゃんを交互に眺めていた私は、
不思議な感覚を味わった。

この狭い一室に、「生」と「死」が共存している
人は死に、また生まれ、生命が巡り巡る

もちろん、「死」は悲しい。
ただ、物事はいつもタイミングだ。
赤ちゃんの「生」とじいちゃんの「死」。

私ももうすぐ父になる。
生命を大切にせなよ、と我が子に説くときには、深みが大切だ。

あぁ、父ちゃんは、いろんな経験をしてきての
この言葉なんだ、と。
それこそが、父にできることだ。

じいちゃん、ありがとう。

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