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先生が先生になれない世の中で(14)教育現場における 「構想」と「実行」の分離④~「多忙化の解消」という罠~

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

「教員の労働環境を蝕む最もわかりやすいものの一つは、多忙化(*1)だ。その症状はたくさんあり、トイレへ行く、コーヒーを飲む、またはリラックスする時間さえもないという些細なものから、自分の専門分野もままならないほどの時間の完全なる欠如などの入り組んだものまである。私たちは、時間の経過とともに悪化してきた慢性的な多忙感に、最も鮮明にそれを見ることができる。やるべきことはどんどん増え、手持ちの時間はますます減るのだ。これはたくさんの結果をもたらした。
目の前にある喫緊の課題のために『不可欠』なことだけをこなすよう、多忙化は人々を『手抜き』へと導く。そして、何をすべきか教えてくれる『専門家』に人々を依存させ、長年培ってきたはずの自分たちの専門性を疑いはじめるよう仕向けるのだ。そのプロセスのなかで、質は量の犠牲となり、良い仕事はやっつけ仕事と置き換えられる。」

これは、以前にも紹介したアップルらによる論文の一節で、1990年にアメリカで出版されたものだ(*2)。

学校ではできるかぎり省エネで過ごし、面倒くさいことは専門家の言う通りにして、とにかく1週間を乗り切ることだけを考える……。そんな当時のアメリカの教員の姿に、今の自分を重ね合わせて読んだ日本の教員も多いのではないだろうか。

執筆者のアップルらは、ボタンさえ押せば誰にでも教えられるほど便利にパッケージ化されたカリキュラムを、なぜ大半の教員らが違和感を覚えつつも積極的に受け入れていたのかに着目し、こう指摘する。「教員が抱える仕事量の現実のなかに位置づけずに、この対応を理解することはできない」。

おもしろくもなく、教員の出る幕さえも奪う自動カリキュラムの積極的な導入は、少しでも楽になりたいという教員の気持ちの表れだったのだ。

しかし、激務から解放されたい教員が、多忙化の解消を求めるあまり教育現場における「構想」と自らの専門性を喜んで手放している姿は、皮肉としか言いようがない。業務効率化や生産性向上の名の下に降りてくる便利な「イノベーション」や従来業務の外注が増えれば増えるほど、教員は長年培ってきた様々なスキルを失い、代替可能な「使い捨て労働者」になっていくのだ。

多忙化の解消だけにとらわれた「働き方改革」は、今日の教員が抱える息苦しさの本質的な解決にならないどころか逆に危険――それがこの間「教育現場における構想と実行の分離」という概念と格闘してきた私の結論だ。

かつてマルクスは、資本家によって職人から「構想」が奪われ、業務の効率化によって職人は単純労働の「実行」ばかりを強いられるようになり、大量生産が可能になったことで多忙化が進んだと指摘した(*3)。この順番は大事であるように思う。

つまり、構想と実行の分離があってこその多忙化であって、その逆ではない。そもそも、職人が構想をがっちりと握っていれば、多忙化という現象は起きていなかったはずなのだ。

また、多忙化を解消したからといって構想と実行が再び結合するわけではなく、それどころか教員の多忙化解消のために構想が犠牲にされつづければ、その先に待ち受けるのは、教職の超合理化、教員の「使い捨て労働者」化、そして公教育の民営化だ。

埼玉教員超勤訴訟のように、多忙化の解消を切り口にしてもよい。むしろ、少しでも教育にお金をかけたくない日本の政府を議論の場に引きずり出すにはそのほうが効果的かもしれない。

しかし、裁判所は、教員の仕事は特殊であり、授業や校務分掌など校長の指揮命令下でおこなわれる業務と、授業準備や生徒の相談対応など教員の「自主的・自発的・創造的な業務」とが渾然一体化しており、後者は労働基準法上の「労働時間」に該当しないという解釈を第一審で出している。これこそが、教育現場における「構想」と「実行」の分離の象徴であり、この解釈のもとで「多忙化」の解消をめざすことは、「構想」の放棄とも言える。

埼玉教員超勤訴訟でも、最終的にめざすべきは、あくまでも田中まさおさんの言う「リセット(*4)」の先であり、行政と学校との主従関係の解消と教育現場における構想と実行の結合、そして教員の自由裁量を取り戻すことなのではないだろうか。

【*1】 英語では、intensificationという言葉が使われている。「激務化」と訳してもよいかもしれないが、あえて日本で一般的な「多忙化」を使うこととした。
【*2】A pple, W.M. & Jungck, S. (1990)“ You don’t have to be a teacher to teach this unit: teaching, technology, and gender in the classroom.” American Educational Research Journal, vol. 276, no. 2, pp. 234-235.
【*3】斎藤幸平(2020)『人新世の「資本論」』集英社新書。
【*4】鈴木大裕(2021)「一度リセットして、そこからまた始めよう。」『クレスコ』2021年11月号

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鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。Twitter:@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2022年7月号からの転載記事です。


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