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先生が先生になれない世の中で(18)教育現場における「構想」と「実行」の分離(7) ~新自由主義批判を超えて~

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

この半年というもの、教育現場における「構想」と「実行」の分離について考えて続けてきた。その過程で、資本主義の支配がもたらした職人の没落について考え、「法隆寺最後の宮大工棟梁」と呼ばれた西岡常一氏の思想に立ち戻る中で、人間が大自然の中で生かされていることを忘れた社会は、「生き物を生き物として扱わない社会」でもあるという気づきがあった。そんな世の中で人が育つわけがないし、地球も持続可能なはずがない。

そんなことを考えるうちに、自分がこれまで展開してきた新自由主義批判に変化が起き始めた。「今日では、後期資本主義の破滅よりは地球と自然の完膚無き破壊を想像する方が私たちにとって容易なのである(*1)」というフレドリック・ジェイムソンの言葉はあまりにも有名だが、地球の終わりがいよいよ現実味を帯びてきた今、新自由主義批判だけでは到底不十分であるように思えてきたのだ。私たちが抗うべきは、資本主義そのものなのではないか。

浦田沙由理(東京家政大学・環境思想)は、今日よく耳にする「エコ」という言葉の使い方に関して、「資源の浪費を控えた環境負荷の少ない生活が『エコな生活』といわれるが、一般の人々の意識として環境問題や自然というものは、自分と関係ない、外の問題としてとらえられている」と疑問を呈している。そして、エコロジーとは「人間も自然の一部であると考える思想」であり、「自然の循環に支えられている人間、人間を生き物としてとらえなおす見方」と再定義している。

いつから人間は、自分たちを「自然と別物」ととらえるようになったのだろうか。浦田は、この「自然と人間の分離という態度は資本主義の誕生の根幹に関わっている」という。「経済学者の玉野井芳郎によると資本主義は農業と工業の本質的差異を無視し、農業を捨象して工業を土台としてその理論体系をつくりだしたという。その結果、農業生産の規定としてあった農業を成り立たせる人間と自然の関わり合いが顧みられなくなり、合目的的な工業の論理の中で物事を考えるようになった。」

どういうことだろうか。浦田が引用した玉野井芳郎は、『エコノミーとエコロジー』(*2)という著作の中で、資本主義という経済体制が、「工業を中心とする世界、いいかえると非農業=非生命体の世界」(70ページ)をつくりだしたことを指摘している。そして、エドゥアルト・ダヴィッドによる、「農業的生産と工業的生産との差異を無視した産業の通俗的な分類法は完全な誤り」という指摘に着目し、説明している。

「有機的生産においては『生命あるものの展開(Entwicklung lebender Wesen)』があり、機械的生産においては『死んだ物体の加工(Verarbeitung toter Dinge)』がある。後者においては、人間の合目的な意思が、意思のないままに移行する中間物の利用をとおして、生産に必要な実態(Sustanz)の分離と結合の作用を行なう。これにたいし農業では生産者である人間は、この分離・結合の活動を『生きた自然(die lebendige Natur)』の自律的作用にゆだねなければならない。この『生きた自然』こそ、ここでは直接の生産者なのであり、人間の労働はせいぜい二次的地位を占めるにすぎない」(78~79ページ)。これこそが農業的生産と工業的生産の本質的な差異であり、資本主義はその違いや農業を営む人と自然との関係を無視し、自然をも搾取の対象にすることで、人間だけに都合のよい大量生産を可能にしたのだ。

それは「土地」の解釈のしかたにも表れる。もし資本主義の工業中心的な世界観から見るならば、土地は人間が種を撒くまでは何も育たない、無機質な、単なる面積のように扱われるようになる。しかし実際には、どんな土地にもそれぞれの生態系が確かに息づいていると玉野井は強調し、E. F. シューマッハーの次の言葉に共鳴している。「私が『土地』というときには、その上の生物を含む。(中略)まずなによりも、土地はそれ自身のうちに目的をもっており、経済以前のものである。」(7ページ)

同じことが、教育でも言えるのではないだろうか。学校に集まってくる子どもたちには、教育以前にそれぞれが生きている人生がある。それなのに、資本主義がでっちあげた「非生命体の世界」は、一人ひとりの命や一つひとつの教室の生態系を無視して、教育をも工業的に、「死んだ物体の加工」のように扱うのだ。ベルトコンベアで流れてくる子どもたちに、脱技能化された教員が単純作業でプログラミングをほどこし、一定の学力をつけた上で市場に送り出す……。そんな貧弱な教育観が、今日の学校を取り巻いているのではないだろうか。

浦田は、自然に対する人間の優越性の存在についても言及している。「人間活動の自然からの分離と同時に、工業社会の優越性という状況があった。自然は貧困や野蛮、工業は反映や文明と結びつけられ、後者が賛美されるようになった。個人の価値観にも浸透し、自然よりも工業化、都市化、近代化が良いものと考えられた。(*3)」

このような価値観が支配的になっていけば、教育もその影響を受けるのは当然だ。自然と人間の分離が起こり、「工業社会の優越性」が生まれるならば、地方の若者たちは都会をめざすようになる。そうなれば、都会でも通用する学力がもてはやされるようになるだろう。それこそが、かつて東井義雄が指摘した「村を捨てる学力」だったのだ。

大田堯は言う。生命あるものには自ずと学習がある、と。乳の吸い方にせよ、食べられる物と食べられない物の分別にせよ、学ばないと生きていけない。学ぶことは生きることなのだ。だから教育は、そもそも生きようとしている子どもの命に寄り添い、支援するだけでよい。

大田堯が訴え続けた、教育を生命の営みの中でとらえ直すことが、今ほど求められている時はない。

【*1】 Jameson, F. (1994). The seeds of time. Columbia University Press. 邦訳『時間の種子――ポストモダンと冷戦以後のユートピア』松浦俊輔・小野木明恵訳、青土社、1998年。
【*2】玉野井芳郎(1978)『エコノミーとエコロジー─広義の経済学への道』みすず書房。
【*3】浦田沙由理(2021)「〈エコロジー〉という視点から見えてくるもの」、『はのねくさのね』50号2021年4月1日、ODH草の根歯科研究会。

鈴木大裕_写真

鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。Twitter:@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2023年1月号からの転載記事です。


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