先生が先生になれない世の中で(17)教育現場における「構想」と「実行」の分離(6) ~抗うべきは「常識」~
「構想」と「実行」が分離される今日の教育現場で、私たちは何に、どうやって抗えばよいのだろうか。そのヒントを見つけるべく、10月下旬、私は関東のとある公立中学校を訪れた。そこで私が目にしたのは、常識に抗う異端の校長と、彼のもとで生き生きと子どもとかかわる教員たちの姿だった。
1週間の視察を終え、私が思うのは、校長の姿勢次第では「構想」と「実行」を結合できるということだ。そのやり方はシンプルで、管理職が管理の手綱を放すことだ。子どもたちの成長のために、教員がやりたいことを自由にやれる環境をつくることだ。
「校長先生、〇〇やってもいいですか?」という教員たちのお願いに対して、その校長の答えは決まって「オーケー」から始まる。そうは言っても、まだまだコロナ禍の終息が見えない状況下でのことだ。校長は次に、「でも、どうやったらできる?」と実現に向けた分析と工夫を促す。感染症対策や生徒の安全の確保、保護者の理解、予算、その他実現に必要な物や時間……。具体的に考える中で、教員がやり方を軌道修正することや、実現に至らないこともある。
でも、驚くことにこの学校は、2020年に北陸への修学旅行を実現している。2020年といえば、新型のコロナウイルスが国中をパニックに陥れていた時期だ。修学旅行実現の背景には、楽しみにしていた3年生たちの願いを叶えたい、という学年主任の熱意があった。
今と比較すれば桁違いに少ない感染者数でも、当時は人々が未知のウイルスの恐怖に包まれていた時期だ。もちろん教育委員会も簡単に認めるわけがない。感染防止対策をめぐって、校長指導のもと、担当者は何度も何度も委員会とやりとりをした。学校から東京駅までは人も多く、電車の使用は禁止と言われ、貸切バスに変更した。東京駅に着いても、新幹線乗り場まであまりに人が多すぎるのでダメと言われ、比較的混雑のない大宮駅までバスで行くことにした。新幹線では車両を貸切ることで一般の乗客との接触をなくし、生徒たちの飲食も禁止にした。コロナ禍の不況に苦しむ旅行業者も、実現に向けてできる支援は惜しまなかった。結果、4か月遅れたものの、念願の修学旅行を実施。市内50以上ある中学校の中で、その年に修学旅行に踏み切った唯一の学校だった。
自然教室も、過去2年間は教育委員会によって中止されていた。しかしこの学校では、宿泊なしの自然教室をおこなっている。週末の朝から夜8時まで、学校を使って、生徒と先生たちは工夫してさまざまな活動をした。お化け屋敷、ゲーム、バーベキュー、キャンドルサービス。覚悟をもって生徒のために尽力する先生たちの姿勢に、生徒たちからも親たちからも、感謝の声が届けられた。
「好きにやってほしい。生徒に愛情をもってやった上で起こった失敗は、失敗じゃないから。」
校長先生は、そんな話を職員にする。
「五感を大事にして、自分の判断でやってみて。もしそれでも親や委員会からクレームが来たら、その時は私がいくらでも頭を下げるから。」
そんな校長先生の教育観が、生徒を信じて任せるという、生徒の主体性を育もうとする教員の姿勢にもつながっている。「管理」ではなく「信頼」。信頼に勝る管理など、あるはずがない。
フィンランド元教育庁長官のパシ・サールベルクは、フィンランドの教員評価について尋ねられた際に、こう答えている。「私たちがどうやって教員を評価しているかですか? 話しもしませんよ。そんなことは私たちの国では関係ないのです。その代わりに、私たちは『どのように彼らをサポートできるか』を議論しますよ」。現場を信じて任せる……。教育現場に結果責任を求めるのではなく、政治に教育現場への投資責任を求める、という全く別のパラダイムがそこにはある。
木を相手にする宮大工がそうであるように、教員もまた、子どもという生命を相手にするのだから「絶対」はありえない。そもそも不信と確実性に基づいたアカウンタビリティ(説明・結果責任)という、新自由主義的な責任(*)のパラダイムで成果の管理などできるはずがないのだ。できるのは、教員が精一杯の仕事ができる環境づくりだけだ。
従来、責任にはレスポンシビリティという言葉が使われてきた。そしてその語源には、「約束」という、外から強要されるのではない、内からの自発的な要素が含まれている。不信ゆえの管理ではなく、信頼ゆえの約束……。いま教育界に求められているのは、信頼と教育の不確実性を重視したレスポンシビリティへのパラダイムシフトなのではないだろうか。
先ほどの校長先生にこんな質問を投げかけてみた。「何に抗っているんですか?」――彼の答えはシンプルだった。「常識かな。」
*この記事は、月刊『クレスコ』2022年12月号からの転載記事です。
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