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先生が先生になれない世の中で(32)  ~マニュアル化する社会の中で②:『不適切にもほどがある!』~

鈴木大裕(教育研究者・土佐町議会議員)

「おい、そこのメガネ! 練習中に水飲んでんじゃねぇよ! バテるんだよ水飲むと! けつバットだー! 連帯責任!!」

時は昭和61年(1986年)、中学教師で野球部顧問の小川は、地元では「地獄の小川」として恐れられる存在だ。選手がエラーしたら「うさぎ跳び一周」、体罰は「愛のムチ」、教室でもタバコスパスパ……。そんな主人公がある日バスを降りたら、令和6年(2024年)にタイムスリップしていた……。これがTBS系ドラマ『不適切にもほどがある!』の設定だ。

「意識低い系タイムスリップコメディ!! 昭和のダメおやじの『不適切』発言が令和の停滞した空気をかき回す!」という宣伝文句通り、セクハラ、パワハラ、コンプライアンスなどという言葉すら聞いたことのない小川は、「不適切」発言をくり返しては令和の人々をあきれさせ、正論をふりかざす相手には、「きもちわりぃ!」と吐き捨てる。

一方、サカエは、研究のためにタイムママシンに乗って逆に令和から昭和にやってきた社会学者だ。体罰、セクハラ、パワハラ……。四方八方から浴びせられる「不適切」発言に驚愕し、正論で真っ向勝負する。昭和から令和へ、令和から昭和へ。半年にわたってタイムトラベルした二人の価値観はしだいに揺さぶられ、それぞれの「常識」が崩れていく。そして二人とも、元の時代に戻ってきた時には、それぞれの時代特有の生きづらさに気づかされるのだ。

昭和と令和、どっちが良い? という話ではない。また、『不適切にもほどがある!』というドラマに対して「不適切だ!」と正論をふりかざすような野暮なことはしたくない。ただ、昭和と令和、それぞれの時代特有の「生きづらさ」について考えてみたいと思う。

コンプライアンスという概念も、それによる規制も存在しなかった昭和を、「おおらかな時代だった」と評価する視聴者も少なくないと思う。ただ、言いたいことが言えたのは強者だけであり、弱者にとってはあからさまな差別に耐え忍んだ抑圧の時代だった。令和ではありえないようなわいせつ映像や差別表現が地上波で飛び交っていた時代。そう考えると、SNSを通じて一市民がネット上で「それダメでしょ!」と批判の声を上げられるようになったのは、まちがいなく前進だ。

一方で、SNSが幅を利かせる令和は、人々のコミュニケーションのあり方が根本から変わり、人が人として出会うことが難しくなった時代でもある。昭和から令和に戻ったサカエは言う。「言いたいことはSNS。気に入らない相手はブロックっていう風潮。なんかモヤモヤ。私も昭和で変わってしまったのかしら。」匿名で無責任な言葉の暴力をネット上でくり返す人たちも現れた。第8話では、バッシングを恐れ、いかなるリスクをも排除せざるをえないテレビ局の苦悩が描かれた。番組を観てもいない関係のない人たちが、匿名で、自分の承認欲求を満たすためだけに、寄ってたかって個人を攻撃し、断罪する……。

人々が超多忙で、そのうえ情報過多の社会だ。だから「コスパ」(費用対効果)ならぬ「タイパ」(時間対効果)が重視され、誰かによって切り取られた情報がいとも簡単に拡散され、実体のない「世間」をつくりあげていく。これは奈良教育大学附属小学校へのバッシング(*1)とも重なる。附属小に行ったこともない、生徒たちを見たこともない、教育の専門家でもない大勢の人たちが、一部メディアによって切り取られた報道を拡散し、附属小の指導は「不適切」と断罪した。当事者は、反論しようにも相手がいないのだ。「世間」の関心はすでに他の「不適切」事案に移っているのだから。

世代や価値観の違う人と本音で語り合えば、誰かを傷つけてしまうこともある。「差別的だ」「不適切だ」と批判を受けることもある。ましてや発言の一部が切り取られ、ネット上で拡散されるこの時代に、そのリスクは脅威だ。だから何も言えなくなるか、当たり障りのないことしか言えなくなる。心の中で思っていても言えないモヤモヤが一人ひとりの中に蔓延し、それが社会全体の閉塞感となる。

コロナ禍でも、集団感染に対するバッシングを恐れ、社会全体が自粛ムードになった。さまざまな行事が中止され、外に出ること、人が集まることに対する世間の目は厳しく、「少しでもリスクがあるならやらないほうがマシ」という事なかれ主義が広がった。

ただ、行事や授業は止まっても、時間の流れは止まらない。そうして、多くの子どもや若者が、思い出もないまま学校を卒業し、つかの間の青春を謳歌できぬまま「社会」に押し出されていった。起こらないかもしれない問題を恐れて何もせず、実体のない「世間」に萎縮して口をつぐむ……。正論を言っていれば叩かれることはない。そうして人々はマニュアルやガイドラインに身を委ね、思考停止に陥っていく。ドラマの台詞が私の頭の中をこだまする。

「あんたは、正しいだけで心がない。」

【*1】 鈴木大裕(2024年)「マニュアル化する社会の中で~奈良教育大附属小学校『不適切指導』事件~」『クレスコ』2024年4月号。
https://note.com/otsukishoten/n/n2b3a4b5c9ec6?sub_rt=share_b 

鈴木大裕(すずき・だいゆう)教育研究者/町会議員として、高知県土佐町で教育を通した町おこしに取り組んでいる。16歳で米国に留学。修士号取得後に帰国、公立中で6年半教える。後にフルブライト奨学生としてニューヨークの大学院博士課程へ。著書に『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』(岩波書店)。X(旧Twitter):@daiyusuzuki

*この記事は、月刊『クレスコ』2024年5月号からの転載記事です。


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