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火星の住人の夢を羨む者たち

それは思い出す限り、幻想だった。

眠りから覚めたばかりの群青色の部屋は、まるで昔の地球で暮らしているみたいだった。隣の部屋は昔の間取りのキッチンだと思い込んでしまうくらい。でも、わたしはすぐに、その思い違いに気づいて、思考のスイッチを切り替えるのに時間がかかった。

ここが地球であるはずはなかった。

耳を注意深く澄ましていると、とてつもなく遠い場所から「カツンコツン」と聞こえてくる。ここから十数キロも遠方の、火星の砂漠の真ん中で、昼夜を問わず巨大なボーリングマシンが働いている音。「カツンコツン、…カツンコツン」だから、ここが地球でないことの証明は終わった。

わたしは起き上がって、いつものスリッパを探した。

ない。いつも気に入っている涼しげなスリッパは、小さな靴に置き換わっていた。靴に伸ばした腕はとても細くて、手のひらは果物のように小さかった。わたしはとっさに鏡を探した。

とても懐かしくて、もう写真や動画でしか会うことのないわたし。なんて小さいんだろう。なんてか弱い姿なんだろう。窓際の立ち鏡に微かに映るわたしは、地球に住んでいた頃の少女だった。ベッドの上で立ち上がっても、上半身が見切れることはなかった。

それなのに、わたしの心はざわめかなかった。こんなことはあり得ないことなのに、この状況を拒むことなく鏡を見つめた。わたしはどんな姿に変化しても素直に受け入れただろう。

「夢や幻を見ることが出来るって、いいよね」と鏡の中のわたしは語りかけた。わたしは頷いた。

「だから、わたしはとてもあなたたちのことが好き」と彼女は微笑んだ。わたしはうれしくて、頷くだけでなく「そう思ってくれると、とてもうれしい」と返事した。

急に「カツンコツン」というボーリングマシンの音が大きく響いた。わたしはベッドの上に半身を起こしていた。鏡に映っていた幼少時のわたしは、三十歳を前にした大人の姿に変わっていた。残念な気持ちも安堵した気持ちもなく、相変わらずこの状況をわたしは受け入れていた。

わたしはさっきの彼女の正体を知っていた。あれこれ推測するまでもなく、少女のわたしの姿を借りた彼女の本当の姿がわからなくても、わたしは知っていた。理由も必要なかった。だから、仮の姿なんて必要なかったし、いっそのこと透明なままでもよかった。突然のことだったので、彼女はわたしに気を遣ってくれたのだと思う。

わたしはいつものスリッパを履いて、窓を開けて朝の冷たい外気を部屋に入れた。きっと彼女はわたしにまた会いにくる。わたしの夢や幻を求めてやって来るだろう。

思い出す限り幻想の出来事は、そっとその朝のわたしに隠しておいた。明日また来るかもしれない彼女のために。

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