火星人の最後の夢
サキの丘のふもとで営まれた或る火星人の葬儀は、静かに進んだ。火星人の末裔の亡骸は、数日経過しても体温が下がらずにいた。彼らは独自の進化をたどる鉱物系の化学反応を死後の細胞内で維持するので、身体上の死とは無関係に発熱しつづけた。温かな遺体を包んだ棺は、最後の太陽の光に容赦なく晒されて道を進んだ。
彼女の名は誰にも呼ぶことのできない不思議な発音でできていた。だから、参列者の誰も彼女の名を口にすることはなかった。その代わり彼女にまつわる思い出を参列者同士が静かな声で共有した。
朱色のサキの丘に葬列の黒い線が長く伸びていく。その先には古い火星人墓地が広がっていた。近年まで砂に埋もれていたその墓地は、われわれの遺跡発掘チームにより発見された。見つかった遺構は、まるで小さな市街地跡のような痕跡だった。火星人の彼女が住む住居から、ほんの数キロしか離れていない場所にあった。
そうだ、彼女は花を咲かせるのが上手だった、と葬列の誰かが思い出す。ちょうど今はトケイソウの園が満開だった。植物のほんとうの意味を知っていると彼女は説明していたが、どんな学者が耳にしてもわからずじまいだった。彼女が出鱈目を言っているのではないことは、彼女の手にかかった植物が証明していた。詳しくは不明ながら、確かに植物の本質を火星人たちは理解していた。
焼けつく太陽の光を浴びながら、最後の火星人の葬列は進んだ。彼女はウイリアム・ウォルトンの20世紀ロマン主義的な音楽をよく好んで聴いた。甘く刹那的な旋律が彼女に老いてなお夢を見させるのだと言っていた。それまで何千年も彼女は夢と名のつく希望を忘れていたのだともいう。だから、気づいたら急に歳をとってしまっていたのよと、彼女は幸せそうに笑っていた。そんな話も行き交った。
多くの年代学者たちが愛した我々の夢は、彼女の蜜になって彼女の身体に深く溶けていった。ずっと干からびて生きてきた彼ら末裔たちに、地球というロマンは贅沢なほど豊饒な味がするのだという。その言葉の通り、彼女は幸せからふわりと豊かに肥え、これが本来の火星人の生きる姿なのよと嬉しそうに説明した。
サキの丘のつきあたりに差し掛かった場所に、彼女が愛した昔の恋人の墓地があった。そのすぐ横に深く開いた穴は、これからの彼女のものだった。「その恋人はね」と彼女はよく思い出して言った。「青い星が、そう、あなたたちの星が好きだった。いつも眺めるたびに、その星に暮らす魚のことや、生物学的な変化を説明しだすの。ぜんぶあり得ない想像だとわかっていても、その夢のシナリオは聞く者を常にわくわくさせた。それが実際の未来であろうと虚構であろうと、どちらでもよかった。進んでいるということ、それがいちばん大切だった」
彼女の恋人がずっと昔に亡くなったのは、不慮の事故が原因だった。調査中の地球の海で溺れたのだという。戻ってきた亡骸はとても小さくて、彼女の胸は張り裂けんばかりにつらかった。だから、もう青い星のことを彼女は考えまいと決心した。恋人の死に追い込んだものを憎むまいとした。そうした苦悩ゆえ、青い星は彼女のこころに深く消えない影となった。
それから数千万年のちにわれわれがやってくると、彼女はまるで昨日も会った顔見知りのように、われわれをこころよく迎えた。彼女のなかの青い影は、哀しみをとうに越えていた。彼女は火星人として最初に確認された生き残りだった。ほかの仲間は、誰もがいつまでも頑なで、どこか深い穴や見えない次元に潜んで見つからなかった。「今でもたくさんいるのよ」と彼女は言うけれど。
やがて、彼女が亡くなってしまうと、火星人の末裔はひとりもいなくなった。この世界に残された彼らの遺跡が、なにかを指し示すばかりだった。埋葬が済んで、サキの丘からわれわれの人影が四方八方に散っていくと、再びその一帯は無口に塞がり、数億年昔のままの平坦な丘に戻っていった。
太陽の熱さが大地の奥深くまで潜って、まだ温かな彼女の亡骸にゆっくり届く。その熱のために、ほんのわずかだけ、彼女の脳裏にもたらされる鉱物的な振動により夢を呼び覚ます。一面にひろがる海が彼女を包み、彼女は恋人の姿を見つけにいく。恋人をぎゅっと抱きしめてあげなくてはと思っている。
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