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『マゼンタ』

 深淵を覗く時、
 深淵もまた此方を覗いている。

        フリードリヒ・ニーチェ
        著作『善悪の彼岸』より


ー 起 ー
 冬の凍てつく大気に漂う塵芥が、旭日きょくじつの光を浴びて、陽の欠片のようにきらきらと舞い散っている。
 私は昇る日の冷光を遮ろうと左手を翳し、眩しさに慣れていない目をしばたかせた。
 視界が揺らぐ眩暈にも似た感覚に、聴覚が刺激されたのだろうか…、行き交う人々の喧騒が押し寄せる波のように響き届いてくる。
 私にとって、いつもと同じ “ はず ” の朝の始まりは、それまでとは違う“ 別の何か ” の訪れを告げる兆しだったのかも知れない。

 朝冷え厳しい駅前広場、その喧騒に紛れ、早朝から何やら試供品を配る女性の姿が見える。
 流行りのコスメ・メーカーのロゴとSTAFFの文字が入ったダウンコートを羽織り、モデルのような立居振る舞いで路行く人達に声を掛けていく。
「ラヴィニア・ロージアから特別な貴女へ御提案が御座います。…新作のカラーコンタクト『マゼンタ』の試供品です。如何でしょうか…」
 コートの前見頃を確りと閉じ、足早にヒールの音を鳴らすOLも、厚いの毛糸のマフラーで頬周りを覆う女子高生達も、漏れる吐息をより白くさせながら、興味津々とばかりに試供品へと手を伸ばしていく。

 きっと出勤や通学途中のファッションに敏感で、新しい物を好む彼女達のような人がまさにターゲットなのだろう。
 私には縁がないかな……、
などと思いながらモデル立ちの女性の横を通り過ぎようとした。
 突然、目の前に華奢な手指が差し出された。綺麗に整えられたネイルのその人差し指と中指の先には、赤紫色も鮮やかな小箱が挟まれている。
 その箱の表には金色の箔押しの文字で
/ M ə dʒ ɛ N T ə /マゼンタ』と記されていた。
「貴女も如何ですか? 新作となっております…どうぞよしなに…」
 艶やかな唇が弓形ゆみなりに浮かべた妖しげな微笑で、私は金縛りの如く捉えられ……、咄嗟の出来事から我に帰り、掌の違和感にそっと指を開くと、そこにはあの小箱が握られていた。


ー 承 ー
 横断歩道を信号で立ち止まると、街角に設けられたデジタル・サイネージ(大型街頭ビジョン)から、某TV局の朝の顔と讃えられている女性キャスターが神妙な面持ちで、昨夜未明に起きた女性ファッション誌編集者のビルからの転落事故のニュースを告げていた。
 やがて信号は青へ変わり、人の群れが足速に動き始める。周りにつられるように歩き出すと、先程までニュースを報じていた大型ビジョンから響く低音のビートが大気を震わせた。

 画面にひとりの女性の姿が映る。
 黒の総レースで飾られたミモレ丈のワンピースドレスと編み込まれた後ろ髪が、そのフォーマルでシックな出で立ちと相まっている。
 刻まれるビートとその軽快なリズムに合わせ、光を透過するスカートの裾がフェミニンに揺れる。
 カメラは全身のカットから首元のアップへと意匠を変え、立ち襟のフリルレースが際立たせる彫刻のようなフェイスラインを映していく。
 私は、その完璧な構図に思わず目を奪われていた。
 カットは首から上へと、再び意匠を変え、光沢のある艶やかな唇、高い鼻梁、そして…目元を覆い隠す妖しげな黒のレースへと……

 その時、道行く女性のひとりが、
「あれ! ALFアルフのモデルのZiAジアじゃない…今までのイメージとたいぶ違うね」
 と誰かに言った。
 その声が私に、ファッション誌の開かれた頁で可憐に微笑むひとりの女性の姿を想起させた。
 街頭を飾る前衛的な映像は続く。

……徐々にクローズアップされレース越しに微かに窺える伏し目がちの眼……その眼が くゎっ と見開かれ、赤紫色の瞳がサイケデリックな光彩を放つ。
 画面の全てが赤紫に転じ、重低音の鼓動が静かに脈を打つ、
 トクン…トクン
僅かに振動する画面、
 トクン…
その画面が水面のように揺れ、
 トクン…
微かに波紋が拡がる、
 …ドクン!!
5度目の鼓動が打ち響くと同時に、赤紫色の画面の水底から黄金の文字
/ M ə dʒ ɛ N T ə /マゼンタ
が浮かび上がり、軈て溶解し融けて消えた。

 気がつくと、いつ渡り終えたものか、横断歩道の縁へと立ち止まり、淀んだ赤紫色の画面を見上げていた。


ー 転 ー
 私が勤める公立図書館には、ひとりの一風変わった司書が居る。
 名を西風 某ならい なにがしという。私の三年先輩にあたる。
 何処が変わっているのかというと、何処で仕入れたものか、聞いてもいない事を、あれやこれやと、詳らかに語り出すところにあった。

 昼食の休憩に入った私は、職員専用のラウンジで、いつものテーブルを前に、手荷物からお弁当の包みを取り出した。その拍子に、包みの結び目にでも引っ掛かっていたものか、あの赤紫色の小箱が転がった。
 その様子を近くのテーブルで見ていた西風 某が中指で丸眼鏡のブリッジを押さえ上げながら近寄ると、いつものようにその口を開いた。
「その表記 “ マゼンタ ” と読むのでしょうね…カラコンですか…興味深い」
 弛んだ口元が滑らかに語りだす。
「実はこの世にマゼンタという色は存在しないのです」
 以外な展開に、私は思わず某氏へと顔を向けた。彼の語りは続いている。
「かのゲーテが『色彩論』で、このマゼンタという色を “ 見えざる色 ” と表現していることは、ご存知……ない」
 私を一瞥するも、湛えた無表情はそのままに独り語りは再開された。
「先ずは、ヒトの目で見える領域の光を意味する “ 可視スペクトル ” という言葉を、その頭の隅に記憶して下さい…」
 自身の顳顬こめかみに人差し指を当てるゼスチャーのあと、再び丸眼鏡のブリッジを中指で押さえ上げる仕草を経て、
「太陽光をプリズムで分散すると 紫 から 赤 へと変化する可視光線の連続スペクトルが現れます。この様々な色が存在する “ 可視スペクトル ” の中にマゼンタ に対応する単一波長からなるの光…つまり「単色光」は存在しないのです。同様の理由で 赤・橙・黄・緑・青・藍・紫 の光のプリズム、つまり 虹 ですね、この中にもマゼンタは存在しません」
 右人差し指を立て、ここからが本題ですよ と付け加えると、ゆっくりと語りだす。
「ではなぜ我々はマゼンタを色として認識しているのか、そもそもマゼンタとは赤色光と青色光それぞれの単色光を均等に混ぜたときにできる色、 “ 赤紫色 ” と言えば判り易いでしょうか。このマゼンタの光はヒトの網膜に存在する赤色光と青色光に反応する錐体細胞を刺激し、脳がその刺激を受け取ることでマゼンタを色として認識するというのです…。つまりマゼンタとは、物理学的に対応する光が存在しない、脳が作りあげた色…故に我々は “ 本当のマゼンタという色 ” を知らないということになるのです…当然です “ 見えざる色 ” なのですから…」
 某氏はその言葉を捨て台詞のように言い放つと自分のテーブルへと着席した。

 掴みどころのない話に二の句を継げないまま、昼休みの大半を費やされてしまった私は、怱怱に昼食をとるとラウンジを後にした。
 午後の業務は、何処か集中力が欠けた状態のまま、気づけば時計は夕刻の6時を回っていた。

 同僚との挨拶も早々に、館外へと出ると、電信柱の地中化に伴い歩道に設置された四角い箱=C.C.BOX に貼られた張り紙が風に煽られていた。
 張り紙に引き寄せられるように傍に寄り窺い知ると、A4紙の上部にコントラストを効かせたフォントサイズで『MISSING -行方不明- 』の文字が印字されていた。
 中央には儚げに優しく微笑む若い女性の顔写真とその下に氏名と年齢、いつどこで目撃されその後消息が不明である詳細、その日の服装と身体的特徴の記載があり、その張り紙に付随するかたちで、連絡先が記された付箋紙が設えられていた。

 最寄り駅までの道のりを歩いていく。
 大型のモニターを搭載したアドトラック(広告宣伝車)と何度となく遭遇した。
 モニターにはZiAのあの印象的な映像と、赤紫なマゼンタ色の光彩が映り、街中を這うように移動し拡散していく。
 映像に魅せられた人々は歩みを止め、眼前の幻を追うかのように、ただそれだけを見つめている。

 突如、背後から絹を裂くかのような声が響いた。何事かと声の上がった方向へと踵を返すと “ どん ” と何かにぶつかり蹌踉よろめいた。思わず キャッ と小さな声が漏れる。
 姿勢を立て直しながら視線を上げると、後退る制服姿の女子高生が怯える目で此方を凝視していた。小刻みに身体が震え、嫌嫌っ と呟きながら小首を振る。
 見覚えのある制服姿に既視感を覚えた時、
…彼女の顔が恐怖に歪んだ。
 悲鳴は絶叫となり辺り一面を怖気させた。
 私は驚きを隠せぬまま立ち竦み、街中を有らぬ方向へと奇声と共に逃げ惑う様子を目で追いながら、今朝方、駅前広場で見かけた “ あの女子高生 ” の姿を思い出していた。

 未だ幼さの残る彼女の顔が恐怖で歪んだ瞬間、その瞳には確かに赤紫の光彩が宿っていた。


ー 結 ー
 駅舎の移築により新設されたショッピングエリアを内包する駅ビル、その喧騒を避け、比較的利用者の少ないオフィスエリアの端へと歩を進める。
 大型書店の中央路を抜け、併設されているお気に入りのカフェの入口で、カフェラテを注文した私は、商品を受け取ると窓側の席へと腰掛けた。
 カフェラテを口に含むと、その芳醇な香りが心を落ち着かせてくれた。

 何気無く向けた視線は、窓の外へと灌がれた。その景観は、いつしか『ラヴィニア・ロージアの “ マゼンタ ” 』の広告に彩られ、もはや私の知る夜の色では無くなっていた。
 闇の領分が、鮮烈な色彩と混じり合い侵蝕され、見渡す限りのマーブル模様の混沌が、ただ不安を煽り孕みながら膨らんでいく。

 カフェを後に書店から斜め前方の通路沿いのレストルーム(化粧室)へと向かう。
 オフィスエリア特有の伽藍とした造りの室内は、白亜の様相で統一され、水回り特有の冷たさを伴っていた。
 3つの洗面台と、その壁面を占める鏡には水滴も水撥ねの痕さえ無い。
 それだけ清潔に保たれた印象に安心しつつ、洗面台の斜め後ろに並ぶ個室へと目を遣る。
 一列に並ぶ6つの個室、その一番奥のドアだけが閉ざされている。
 先客が居るのね……、
気配を窺いながら、静かに入口から離れた洗面台へと移る。
 鏡を前にバッグから化粧ポーチを取り上げリップクリームを取り出す。
 筒状のキャップを外し、台座を “ くるくる ” と回すと、棒状に伸びたリップを優しく唇に押し当て弓形に滑らかな光沢を引いていく。

 カタンっと音を立てて何かがこぼれ落ちた。洗面台に預けた左手のその開かれた指先に何かが触れる。
 左下方に向けた視線の端には、あの赤紫の小箱が映っていた。
 リップを仕舞い、小箱に何気なく手を伸ばす。興味本位で上蓋の番いを軽く押すと、開口の縛めは軽く破れた。
 開いた上蓋の内側には、錠剤入れのような薄いプラスチックケースに液体と共に内包された半透明な赤紫色のレンズが2つ並んでいた。

 それは出来心のような、ほんの些細な好奇心だった。

 プラスチックケース裏面、銀色の薄膜を破ると中を満たしていた液体が筋を描き滴る。レンズを人差し指に乗せ、先ず右に、そして左に瞳へと重ね合わせていく。
 慣れない作業と異物感が齎す涙が溢れ、それを拭うように目蓋を瞬かせる。やがて最初の違和感は無くなり、涙の膜で揺れる視界は徐々に開かれていく。
 瞬間、ギィっとドアの蝶番が鳴った。
 音に釣られた視線が、自然に奥へと泳ぐ。
 焦点を合わせようと目を細め窺い見ると、奥の個室のドアが開いていた。
 確かに誰かが居た筈の気配は既に霧散し、現れる姿も無い…。
 悪寒が漣のように襲う。
 私以外、今は誰も居ない筈のレストルームに、徒ならぬ気配が充満していた。

 鏡面の乱反射に思わず視線を戻すと、鮮烈な光が瀲灔れんえんと揺れ動いている。
 レンズ越しに網膜へと伝わる強烈な刺激が視神経を侵していく。
 目が痛い……。
 きつく閉じた目蓋を焼くような光、その外的刺激から逃れようと翳す掌の指の隙間で、何かが確かに動いた。
 薄目のまま、涙に濡れ眩む眼で、鏡を凝っと見つめる。
 フォーカスが絞られた刹那、物資に満ちたこの世界は一転した。

 鏡に映る凡てが、えも言われぬ色彩の濃淡に彩られている。それは今迄に見たどの色よりも生々しく鮮やかで刺激的だった。
 その色が無闇に神経を高ぶらせていく。
 幾重にも重なりぼやけた輪郭が、得体の知れない何かへと収束する。

 ずずっ…ずずっっ…
 背後で何かが這いずる…その徒ならぬ気配に戦慄し立ち竦んでしまう。
 鏡越しに映る私のうしろには、あの女子高生の顔があった。コート姿が印象的だったあのOLの顔もある。
 行方不明の張り紙に印刷された写真の女性も、STAFF用のダウンコートを着たモデルのような女性も…。
 デジタル・サイネージに映し出されていた転落事故の被害女性、ニュースを報じた女性キャスター、見覚えのある彼女達の顔だけが此方を向いて嗤っている。
 瞳がマゼンタ色の尾を引きながら、妖しく揺れていた。
 怖気に蹌踉めき、思わず後退った私の直ぐうしろに異形のモノが這い寄る。
 顕になったその姿は、幾つものヒトの顔を抱き畝る混沌のカタチだった。
 結像したマゼンタ色の闇が蠢動している。
 マゼンタ色に発光する触手が身体にふれると、全身は痺れ捉えられた。
 緩慢な獲物になり果てた私へと、生暖かな被膜が纏い着く。被膜に覆われた部位が内側へと静かに緩やかに沈み始める。
 私という存在は蝕まれ、マゼンタ色だけの世界へと攫われていく。
 蠢く色の物体へと同化されながら…
 軈て齎される絶望さえ感じぬまま……


 その色を見てはいけない…
 もし…、その色を見てしまったら…
 その向こう側にある色域に蠢くものが…
 あなたに気付いてしまうから……


 了



 この作品は、H.P.ラブクラフト著作『The Colour Out of Space』(日本表題『宇宙からの色』『異次元の色彩』)から着想を得ています。
 更に、ニコラス・ケイジ主演で映画化された『カラー・アウト・オブ・スペース -遭遇-(2019)』での強烈な色彩イメージにインスパイアされました。
 尊敬リスペクトするラブクラフトの大好きなクトゥルフ神話へのオマージュ作品として創作したものです。

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