夏に生と死を思う

今年も夏がやってきた。
広々とした青空に、鳴り響く蝉の声。
この生命の息吹を感じる季節に、僕は生と死を思う。

小さいころから生きることと死ぬことに恐れを抱いてきた。
自分が生まれるずっとずっと昔には何があったのか?
宇宙が存在する前にはそこには何があったのか?
自らが死を迎えた後で自分はどこに行くのか?
自分はいつか絶対に死ぬ、嫌だ、怖い。
こういうことを幾度となく考え、恐怖におののき、涙しながら眠りについた日もある。
「それでも日々を一生懸命生きるしかない」と打ち消しても、それでも嫌だと強い感情が湧き上がってくる。

最近になって気づいたことは、こういう感情は夏に多いということだ。
生命の息吹を感じる季節だからこそ、その対極であり地続きでもある死にスポットライトが当たる。コントラストがはっきりする。
ご遺体と向き合った解剖学実習もこの季節であった。
また日本で暮らしている以上、原爆や終戦の日といった忘れ得ない事柄に触れる季節でもあるからだと思う。

鹿児島県の知覧を訪れたことがある。
戦時中に特攻隊の基地があった場所である。
その資料館には、年齢の変わらない10代の特攻隊員の遺書が数多く展示されていた。
ひとりひとりに家族と生活があり、それが戦争で失われたのだ。
当たり前の事実に気付き、愕然とした。
この人たちは何を思い亡くなったのか、僕は想像することしかできない。
ただ、今自分たちが暮らしている世界は、このような歴史の上に成り立つものだということを忘れてはいけない。

広島で原爆について学んだこともある。
あまりにも高いホテルの屋上よりも、さらに高くで爆発し、一瞬、そう本当に一瞬で人々の生活と命が文字通り灰燼に帰した。
夏の空を見上げると、その話を伺ったときの気持ちを今でも思い出す。
あまりにも自分は無力だと。
いわゆる平和学習をしたところで、本質的には何もできない。
当時の人々の痛みを理解するとか、そんな態度はおこがましい。
その中で少しでも想像力を高めること、同じ過ちを繰り返さないこと、これらに対して努力することしかできないのだと感じた。

その他にも沖縄や長崎、そして全国に無数にあったであろう空襲、徴兵。
そのすべてを学ぶことは到底できないだろう。
だがそれに少しでも思いをいたすことができる人間でありたい、と祈るような気持ちになる。

話を戻して、自分にとって死とは何か、答えを探してきた。
「死とは成し遂げ」という言葉に救いを得たこともある。
何かを成し遂げることができれば、自分なりの納得いく着地点に持って行ければ、それは良い人生だったのだろうと思える。

ただ、死はあまりにも生と地続きであるということをこれまで経験してきた。
最近の自分の死生観は「死は気付くことができず、そして生の大いなる一部分である」というものだ。
生まれてきたことを自覚している人はいないだろう。
代謝が絶えず行われているということは、物質的には完全に入れ替わっているということがわかる。
それなのにも関わらず、自分を自分たらしめる、連続性を持たせるものは何なのか?
死を以て個にピリオドは打たれるのか?
自分が終わる、その終わるという意味とは?
今現在のこのあたりの疑問に、自分なりの答えを見出したい。
そうして死と向き合い続け、それでも生きること自体が、「生きる」ことの意味になりうるのではないかと思う今日この頃。

今日は人生で初めて、羽化したばかりの蝉に出会った。
思わず写真に残した。

死、そして生と向き合うことから逃げたくなくて、医師を目指した自分は確かにいた。
自分の無力感を日々感じるけども、日々に忙殺されすぎず、その原点を思い出していたい。
少しでも多くの人が、少しでも豊かな想像力を養っている、そんな世界を祈りたい。

少々真面目に生きすぎかもしれないけれど。

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