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「解釈違い」と「わからない」の間には、とてつもなく深い溝がある。

私は「解釈違い」という言葉が好きだ。この言葉は、ある作品に対する自分の解釈に対して、他人が違う解釈をしていたときに用いられる言葉だ。この言葉が用いられるとき、往々にして長々とレスバトルが繰り広げられる。

なぜ私がこの言葉が好きかと言うと、そこにその人自身の感想が必ずあるからだ。簡単に言うと「どう思ったか」だ。そして違う感想を持った人と意見を戦わせる。とても良いことだと思う。

というのも私は学生時代、物事に感想を持たない学生とたくさん出会った。具体的にどういうことかと言うと、「〇〇についてどう思う?」と私が聞くと、「え〜、わからん。」と答えるような学生だ。授業内でも、休みの時間でもこう答える学生は多かった。

正直意味がわからない。何故わからないのか。心底意味がわからない。どんな物事にも誰しも感想の1つはあるだろう。難しかった、面白かった、怖かったなど、そんなもので良い。絶対あるはずなんだ。しかし、わからないと言ってしまう学生の多さよ。どんな感想でも話は広がるというのに、わからないだけは、そこで終わってしまうのだ。

私は「わからない」という感想を言われると、いつもちょっと不機嫌になっていた。時には、「なんで分からへんの?何も思わんの?」と食い気味に質問していた。今思えば悪かったと反省しているが、それくらいこの回答が嫌いだった。何かに対して「自分がどう思った、感じた」というのはとても重要なのだ。感想は思い出や記憶になる。そしてその人の蓄積になっていくのに。もったいない。

それに対して、「解釈違い」はどうだろう。自分の感想と相手の感想が違うということまで、最初から認識しているのだ。素晴らしい。そして互いの感想をぶつけて、「こういう考え方もあるのか」と世界が広がっていく。将棋や囲碁の感想戦に似た、他人の考えを吸収する良い機会なのだ。

もちろん意見を戦わせるときに、相手の人格や容姿まで否定してはいけない。ただ意見ならどれだけ戦わせても良い。そうすることにより、よりその作品や物事に対する理解が深まるからだ。これが客観性というものかもしれない。私はこれからも、常に自分がどう思ったか、感じたかという感性を大事にしたい。そして他人に問われたときに、すぐに答えられるようにしたい。決して「わからない」などとほざかないように。


しかし、今日のnoteのテーマを何故「解釈違い」にしたのかは、一体全体徹頭徹尾、私にもわからない。ご容赦を。

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