カミノツカイ
なにやら向こうの方が騒がしい。
どうやら人間がエサを配っているようだ。
何も知らず、何も知ろうとせず、無邪気な顔をしてエサにありついている者たちを見ていると、嘆かわしいやら情けないやら、悲しい気持ちになってくる。
お前たちには無いのか?
鹿としての矜持が。
鹿として、この世界を生きているプライドが。
数年前に亡くなった爺様の言葉を思い出す。
「ええか。何を失ったとしても、たとえどんなに苦しかったとしても、鹿としての矜持を捨ててはいかん。矜持を捨てた瞬間、ただの動物に成り下がってしまう。周りを見渡してみい。自分が神の使いであることを忘れて、ただ食欲を満たす為だけに生きている者が大勢おる。お前は、お前だけは、あんな風になってはダメや。ええか。多くの奴らが忘れてしまっているが、わしらは神の使いなんやで。それだけは、忘れてくれるなよ」
その時、もう既に病魔は、爺様の身体のほとんどを蝕んでいて、痛みと苦しみで、息も絶え絶えといった様子だった。
そんな爺様の事をバカにして笑う奴らもいた。
「神の使いだかガキの使いだか知らねえが、そんなもんで腹が膨れる訳じゃねえ。人間に愛想振りまいて近づいて行きゃあ美味い食料にありつけるんだ。耄碌ジジイの事なんざ放っておけばいいさ」
彼らはそんな風に言って、爺様の話を聴こうともしなかった。
くそっ!なんとかしてあいつらの目を覚ましてやりたい。人間に尻尾を振って愛想を振りまくのが、私たちの本当の姿ではないはずだ。なぜ分からない?私たちは神の使いなんだ。選ばれし者なんだぞ,,,。
「とおちゃん」
「ん?なんだ、ディアー」
「僕、お腹すいちゃった。」
「おお、そうか。そうだな。林に行ってみようか。この前、柔らかい葉が沢山ある場所を見つけたんだ。きっとお前も,,,」
「,,,とおちゃん」
「どうした?」
「僕、あそこで皆が食べてるやつ食べてみたい」
「なんだとっ!?」
「昨日、友達が言ってたんだ。お前、あんな美味しいものを食べたことがないのかって。なんて可哀そうな奴だって」
「ちっ!そんな奴の言うことを,,,」
「とおちゃん!知ってる?みんなが陰で、とおちゃんの事なんて言っているか」
「,,,,,」
「僕は悔しいんだよ!あんなこと言われて。とおちゃんは悔しくないの!?」
「,,,ディアー」
「悔しい,,,悔しいよ,,,」
私は、何も言い返すことができず、泣いている息子の背中を撫でることしかできなかった。
「佐伯さん」
呼びかけられ、柵を修理していた手を止めた。
「ん?なんや?」
新人の山下が、道具を手に持ったまま、どこか遠くの方を見ていた。
「なんで、あの2頭はエサをもらいに行かないんですかね?」
山下が見ている方向へ目をやると、確かに2頭、エサを食べている集団から離れた場所に佇んでいるのが見える。
その姿は、どこか凛としていて、夕焼けが彼らを赤く、強く、照らし出していた。
「さあなぁ。長年、ここの管理の仕事をしとるけど、いっつもそうなんや。理由は分からん。鹿は鹿なりに、何か考えるところがあるんかもしれんなぁ」
仕事中であることを忘れているのか、山下は何かに魅せられるかのように、2頭の方をじっと見つめている。
「ほれ、仕事や仕事。そんなことやっとったら、いつまでたっても終わらへんやろ」
「あ。はい。すいません」
慌てた様子で、道具を握り直し、柵の修繕に取り掛かる。
この前の台風の被害は大きく、壊れてしまった柵は、見るも無残な姿になっていた。
少しずつだが、以前の姿を取り戻しつつある。
「ふう」と思わずため息が出る。長時間、しゃがんで行う作業は、この歳になるとやはりキツイ。立ち上がって腰を伸ばしてやると、硬くなった筋肉が気持ちよく伸びるのが分かる。
ふと、何気なしに先ほどの2頭の鹿の方を見た。
2頭は寄り添うように、林の方へ向かって歩いていた。
エサでも探しに行くのだろうか?
わざわざ林に行かんでも、すぐ目の前で美味いエサがもらえるのに。人間と一緒で、鹿にも強情っぱりというのがあるんやろうか?
と、ふいに1頭が立ち止まり、こちらを振り向き、佐伯と目が合った。
大きな方の鹿。親鹿だ。
じっと、佐伯を見つめている。
佐伯の目を、見つめている。
何か訴えようとしているのだろうか?
遠く離れていても分かるくらい、その目は澄みきっていた。
夕暮れの弱光が、まるでスポットライトのように、彼に当たっている。
『なあ、お前は、そんな生き方しとって、辛くないんか?しんどくないんか?』
無意識のうちに、心の中で、彼に話しかけている自分に気付く。
それとも、彼が話しかけてきているのだろうか?
彼の立ち姿に、自分の内にある悲しみや寂しさ、人生に対するやり切れなさが、映し出されているような気がした。
ふと、目を閉じてみると、2年前に別れた妻や、もう連絡をとることもなくなった娘の姿が浮かんできた。
もう忘れたはずなのに。忘れることができたような気がしていたのに。
2人の姿が、2人の笑顔が、まるで蜃気楼のように、浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。
『お前らのために、こんなに必死になって働いてんのに、なんでわかってくれへんのや!こんなにお前らの事を思ってんのに、なんでや?』
『戻ってきてくれ!頼むから戻ってきてくれ。お前らと別れてから、虚しくて虚しくて仕方がないんや。頼むから、もう一回やり直させてくれ』
そんな言葉たちとともに、胸いっぱいに、どう仕様もない悲しみや寂しさが広がっていく。
そんな私を、彼は、憐れむように、慈しむように、静かに見つめていた。
「佐伯さん?どうしたんですか?大丈夫ですか?」山下が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「ん?,,,ああ,,,いや、なんでもない、なんでもない。ちょっとボーっとしとっただけや。すまんかったな」
山下の声で、我に返った。
先ほどまで胸に渦巻いていた感情は静まり、どこか清々しい穏やかな気持ちが自分の内にあることに気付いた。
もう一度、身体を伸ばすついでに空を見上げると、いくつか星が見えた。
やさしい風が、身体を冷やしてくれるのを感じる。
目を閉じても、もう2人の姿が浮かび上がってくることはなかった。
気になって、もう一度、彼の方を見たときには、2頭とも、姿を消していた。
彼らが向かったであろう林の方に目をやる。
まるで何かを祓い清めるかのように、風が静かに通り過ぎていく。
いくら目をこらしても、2頭の鹿を見つけられる訳もなく、ただ、木々の枝葉が、ゆらゆら、ゆらゆらと、揺れているだけだった。
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読んでいただき、ありがとうございます。
今回、 gemini6rabbitさんの写真からインスピレーションを得て、短い物語を描かせていただきました。
鹿と見つめあった時、一体、自分は何を感じるだろうか?
そんなことを考えながら、描きました。
今日も、すべてに、ありがとう✨
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