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元講師が打ち明ける「歌手やシンガーソングライターを夢見る君へ:番外編」:歌の完全コピーについて

ひさびさにこの記事シリーズを再開することにした。

理由は、前回書いていた時期の後、別の「やりたかったこと」が大体できたことと、2年前にいったん中止した後から今まで、数は少ないながらも忘れ去られることもなく、週に数十人単位で読んでくれている人がいるようだったからだ。

そこで、この記事シリーズとは別に、ボーカル・シンガーソングライターの講師向けの、講師業をテーマにした有料記事シリーズも後々スタートさせようと思っている。

この記事シリーズを中止した頃は、やらなくていいか、と思っていたが、また最近いろいろとチャレンジしたい気持ちにもなってきたので、まあとにかくやってみようとなったのだ。

さて本記事シリーズに話を戻すと、前回までに、歌手やシンガーソングライターを目指す人たちに最低限伝えたいなと思ったことは伝えたので、今後は番外編として、まあそこまでじゃないけど、知っていても損はないかなというテーマを扱おうと思う。

今回のテーマは「完全コピー」という歌の練習方法について。

歌の「完全コピー」とは

歌手やシンガーソングライターを目指す人にとって、とても有益な練習方法が「完全コピー」だ。

「完全コピー」というのは、君の歌を誰かが目をつぶって聴いたら、コピーしている歌手本人と勘違いするくらい完成度高く似せて歌えるようになることだ。

完全コピーのことを今後、完コピと略すが、完コピは歌い方の幅を広げるのにとてもよい効果がある。
そのほかにも、歌の上達にとってたくさんよい効果があるので、この記事でいくつかポイントを紹介しようと思う。

用意するもの

・君が完コピしたい歌手の歌入りの音源
・カラオケ(できるだけ本物のカラオケがよい)

やり方はシンプルだ。よく聴いて、練習する。そして録音して自分で聴いて、という一連の試行錯誤を繰り返し、オリジナルに近づけるだけ近づいていく。それだけだ。
ただ、方法がシンプルなだけに、その人の発想力の差で、効果が何倍も違う。
以下、ポイントごとに解説していこう。

■誰をコピーするか

もちろんまずは「君の好きな歌手」であったり、「君が歌えるようになりたい歌」ということでよいと思う。

それに加えてお勧めなのだが、「君の嫌いな歌い方をする歌手」をコピーするのも、とてもよい効果がある。

君の嫌いな歌い方は、いわば君の歌い方の反対方向の流派である可能性が高い。そういう歌手の歌い方を完コピすることで、今まで君ができなかった表現を獲得できる場合があるのだ。

また、食わず嫌いしていた歌い方でも、真摯に向き合い、完コピに取り組むことによって「こんなことがあったのか」というような、気づきもあるかもしれない。それこそ、君の歌に対するイメージや可能性の幅が広がることを意味する。

ある歌い手の先輩が私に「嫌いな歌い手を完コピ」することを勧めてくれたのだけど、もちろん私も最初は「うへー。嫌だあ」となった。

でもやって良かった。私には到底無理だろう、自分はそういうタイプじゃないんだから、と思っていたような方向の歌い方が身についたのだ。

努力で歌の引き出しというか幅を広げられた経験は、とても嬉しかったし、自分の力になった。歌に対する研究心みたいなものも芽生え、講師業をするようになってからもいろいろなことを教えられる元になった。

■完コピの効果が表れるのは忘れた頃

来月ライブがある。だからそれまでに歌の実力を上げたい、みたいなニーズに対して、完コピは間に合わない。

なんというか、いろいろ練習して、練り上げて、完コピに近づいて、いい感じに歌えるようになったとしても、それが「君の歌」によい影響として発現するまでには結構なタイムラグがあるのだ。

私の体感だと完コピ達成からどんなに早くても3か月後、通常は半年以降経ってからという感じだ。

完コピした歌手の歌が技術面でも心の面でも、君の奥深くに染みわたるような期間を経て、少しずつ君の歌が変わってくるという感じ。

急に無理やり変えようとするのはまさに付け焼刃であり、それはわざと真似を取り入れている感じになり、あまり自分の歌の幅や深みとしては出ないと思う。

■完コピは心をもコピーする

まず完コピで一番大切にしたいのは、技術だけではなく心をもコピーしてほしいということだ。

音楽は、何らかの心の動きや意図が載った入れ物なのだ。

だから、技術しか目に入ってない状態で完コピするのは、実はとてももったいない練習の仕方なのだ。

その歌い手や作曲者が、何を伝えたくてその曲を作ったのか。

その歌の中にどんな心の動きが見えるのか。

もちろん、難しいことはヌキにして、とにかく楽しもうよ、みたいな曲や、はっきりした意味はなく、聴く人にイメージを任せているみたいな曲もあると思う。

それならそれで、その意図を聴く人が確実に楽しめるようにするために、その歌い手や制作陣は何をしているのか、というのをいろいろに想像してみる。

そういった作品の「心」「意図」を抜いてしまったら、その音楽の命の部分が抜けてしまっている状態になるし、何より、そもそも技術とは、心と混然一体であるものなのだ。

私の拙い文章で伝わるかはわからないが、技術だけしか見ていない状態で
いろんな小細工を身につけた歌を歌うようになっても、聴く人と心の深い部分でつながるというのはほとんどないように思う。

どこかで書いたかもしれないが、センスとは結局「思いやり」なのだ。

聴く人の求めているものがわかることも「思いやり」だ。それが実現できるかは実力だけど。。。

あなたが完コピの対象にしたプロの歌い手が、何を思いながらこの歌を録音し、歌にどんな思いを込めているのか。正解は永遠にわからないが、そこを思いやり、自分なりの答えを見つけ、それを自分自身の歌で実現するということこそ、完コピの主たる目標なのだ。

■まずは「息継ぎ」をチェックしてみよう

もし君が初めて完コピにチャレンジする気になって、最初にお手本の歌を聴きこんでいくとして、まず確認ポイントとしてお勧めなのが「どこでどんな風に息をしているか」だ。

プロとアマの差が歴然と出るポイントは複数あるが、「息継ぎ」もその一つだ。

まず、素人の歌は、まあ当たり前なのだが、息継ぎのプランニングがない。

もちろんプロでも息継ぎのプランなど立てずに素晴らしい歌を歌っていることは全然ある。

しかし、それは、それで成立するだけの基礎力、あるいは歌唱力を持っているということになる。

素人の歌で息継ぎのプランニングがないというのは、ただの行き当たりばったりであり、息が足りなくなれば、声が不安定になるし、変な所で息を吸うことになる。

プロの歌は、基本的にはどこで息を吸うか、どんな風に息を吸うかは十分に練られていることがほとんどと思ってよいので、まずは自分でメモを追加できる歌詞カードを用意し、お手本の歌がどこでどんな風に息継ぎをしているのか、何度もよく聴いてメモっていこう。

まあ本当は力不足でデビューして、ディレクターに歌をつけてもらっている場合も多いんだけどね。そういう現場で、指示された息継ぎじゃ本人が歌えない場合、歌詞ごと変えてしまう場合もある。

最近はPCで切り貼りするから、あてずっぽうで何回も録音してパッチワークみたいになっている場合もある。

まあそれはそれとして。

息継ぎといっても、プロの息継ぎは種類も豊富だ。

まず、プロとしての基礎力がある場合、1曲で本来はそんなに吸う必要がないのだが、「息の音」を聴かせるために、わざと音を立てて息をしている場合がある。

なぜそんなことをするのか?

なぜすると思う?

そこをよく考えて自分で答えを出し、しかも全く同じようにできるようになることこそが完コピなのだ。

あとはカンニングブレスだ。今度は逆に絶対に息が必要で絶対に息継ぎをしているのだが、聴いている人にはわからないように息を吸う。
つまり、カンニングブレスは耳で聴くだけではわからない。
そこを推定していくのだ。

どうしたらカンニングブレスを推定することができるのか?

どうしたらわかると思う?

どうしたらカンニングブレスができるの?

おいおい今回は全部それかよ、とお思いの読者の方もいるかもしれないが、それを自力で見つけた時の嬉しさがあるのだ。

そして、プロとしての基礎力をもっている歌い手の息継ぎの音は、基本的に無音に近い。息の音はしなくなるのよ。

吸う力が強く、吸気のスピードも速く深いからだ。

たった1・2曲歌って、ハアハアゼーゼー言ってるのは基礎力が全然足りてないのだ。

でも、十分な基礎力を持っている世界的な歌い手でも、息の音が聞こえることがある。先程紹介した聴かせる吐息じゃなくて、ゆっくり吸ったり、大きく吸ったり。

なんでそんなことをするのか?

その問いに対して、歌い手の気持ちや状況を想像して徹底的に考え、自分なりに解を見つけ、死に物狂いで練習し、会得してほしいのだ。

もちろん、プロの歌い手と同じ息継ぎ箇所を全て特定できたとして、同じように歌うことはなかなかできないだろうと思う。
まず吸う力にしても吐く力にしても足りないだろう。

君が懸命に努力と練習を積み重ね、息継ぎの位置だけは同じようにできたとしても、歌声はヘロヘロ、終ったあとは疲労困憊ということになるだろうし、それでいい。ただ、そのヘロヘロの経験こそ、力不足でも確実に歌唱力向上にはつながっているのだ。

そうやってやっていると、プロの歌い手の凄さがだんだんわかってくる。素人だった君が、プロとしての技術の片りんに触れて、プロへの扉の取っ手に手をかける(まだ開けてないけど)ようになってくるということになる。

■語尾や声の終わりに注目してみよう

声の表情ということに関しては、いろいろな方法で表情付けをすることができるが、わかりやすく感情の違いがでるのは語尾の部分だ。

例えば、セリフとしての「あのさあ」というので考えみる。

「あのさあ」の「さあ」の部分を落とすような感じで言えば、なんとなく落胆している感じというか、あきれている感じにならないだろうか?

「さあ」の部分で語気を強めると怒っている感じになるだろうし、軽やかに「あのさっ」とハキハキ言うと、なんとなく嬉しい感じになったりする。

そういう意味で語尾、声の終わり、フレーズの終わりに注目してみると、プロの歌手の語尾やフレーズ終わりというのは途方もないくらい変化に富んでいることがわかると思う。

誰もが認めるようなボーカリストの場合、この語尾やフレーズ終わりの表情っや変化付けというのはほぼ確実に精密にコントロールされている。

ここでも、素人がなんとなく歌っているのと、プロが歌に心を込めている部分の差が歴然とある。

また、声の表情とは別に音楽としての要素で言っても、音の終わりをどのようにするかというのは、プロの仕事であれば1曲の中でも質感、空気感、感情、グルーヴなど、様々な表現がなされている。

素人で、一見上手そうに聞こえる人の場合などは、この語尾の部分の表情や音の終わりの感じが1曲通してスタンプで押したように「揃っている」ということがある。

要するにクセなのだ。それは反射であり、厳密には感情の表現ではない。

歌唱の技術というか基礎的な面から言っても、素人の場合は語尾にそこまで神経を使っていないので、息抜けが起きていたりして、よく聴くと終わり部分の声がヘナヘナになっていて、音程も不安定になっていたりする。
そして大抵、息抜けが起きているときは集中力も抜けている。

プロの歌手というのは、その育成の仮定でそういう細部への扱いについて、プレレコなどで業界の大人たちから指摘されまくり、悩みながら己の技量や丁寧さ、歌に賭ける真剣さなどを体得していくか挫折していく。

と、ここまで厳しく書いてきたが、実際はそうじゃないプロもいっぱいいるんだけどね。


先に人気があって売れるから誰も指摘しない場合もあるし、とにかく声のキャラだけで勝負している人とか、センスがありすぎて誰も教えていないのにできる人とか。まあ現実は怖い。

しかし、そんな例外はどうでもいいと思う。
君は君の歌を精一杯磨いていけばいいのだ。

完コピと言っているが、本人と間違うくらい近づかなくてもよいのだ。器用な人は憑依させるくらい寄っていけばいいし、不器用な人はとにかく自分の最善を尽くせばいい。

目標はマネではなく、歌に込められた心を感じ、再現することと、その挑戦の仮定で副次的に得られる自分のスキルアップなのだ。

■自分の発想で完コピを突き詰めよう

ここまでで、2つだけ、例えばどういう観点で完コピを進めればいいかを書いた。

もちろん、これ以外にも様々な観点がある。

例えば、レコーディング時、歌い手が立って歌っているとは限らない、とか。

自分の発想次第でどこまでも歌を突き詰めることができ、君の歌い手としての力量、表現の幅をビルドアップしていくことができるだろう。

昔の洋楽の有名な歌い手で、「子どもの頃はラジオを聴きながら、一緒に歌っていたんだ」みたいにサラッと言いのけるインタビューを読んだことがある。

彼にとっては好きで一緒に歌っているだけという感覚でも、彼の耳はその歌の全て、骨の髄まで聴き取る能力を持っていて、かつ、楽しく歌うだけでどんどん表現が身に付いていったということを意味している。
うーん才能って恐ろしい。

これが私のような凡人になってくると、楽しくガーガー歌ってはいるが、別に好きに歌っているだけで、そのままでは何年歌っていても、その歌い手の骨の髄まで吸収ということにはならない。

ただし、天才も私たち凡人も同じ人間ではあるので、しっかり心がけて注意深く練習していけば、天才レベルには届かなくても、自分の歌を磨きあげることはできる。

■完コピしなくてもいいんだよ
■「無学、論に屈せず」と「作って壊す」

私の場合、歌う時は何も考えていない。これには、いきさつがある。

私は真面目なほうだったので、いろいろと完コピを試みては、表現の引き出しを増やしていった。つらい基礎練習も毎日限界までやったので、声量もかなりあった。

いざ歌うとなれば、蓄積してきた引き出しと基礎力で、あそこはこう歌おう、ここはこう歌おう、と苦労の末に身につけたテクニックを存分に使おうとしていた。

でも、そんな私の歌は聴く人に全然響かなかった。ほとんど評価されず、自分の手応えもなかった。

長く試行錯誤をし、やめようかと思うほど悩んだ挙句、ある時、私は小細工を捨てた。

いろいろ策を練って、決めた作戦に従って歌うような感じだったのをやめて、無心で歌いだし、その時に自分の心に浮かんだものとか、自分の心の動きをストレートに出す、何の小細工も飾りもなく出す、という歌い方にしたのだ。

そういうフリースタイルでも体がついてこられるように、歌唱力や基礎力を向上させていくという考え方に切り変えた。

それから2年くらいたっただろうか、ごくたまには本物の拍手をいただくことも経験できるようになった。

技術は目的ではない。

すごいと思われてどうする。それで世の中が明るくなるの?

歌は、聴く人の心を明るくしたり、慰めたり潤したりして、元気になってもらうのに使ったほうがいいと思うのだ。

普段から何にも練習していないプロの歌い手も存在し、それなのにいい歌を歌っていることは全然ある。

その場の本人をそのまま出せているから、自然と歌にさまざまな表情がつくのだ。

人間の感情は常に動いている。映像のように、全く同じものが繰り返されることはあり得ない。もちろん、悲しい、嬉しいと分類できるレベルでは繰り返されていても、どんな時も微妙に違っているのが人間の感情だ。

そして素人でも、心を打つ歌を歌うことがある。

小細工や下心がないからだと思う。技術的に何もできないからこそ、心を込めるしかない。そう思っていなくても、真に素直に歌えばそうなる。

機会があれば、本物の赤ちゃんを抱かせてもらい、歌いかけてみてほしい。

本当にぷにぷにの、柔らかい、そして軽く小さくか弱いのに、あふれるような生命力を感じ、抱いているこちらも不思議と安らぎ、幸せな気分になる存在。そんな赤ちゃんに、歌いかけたとして、

君の歌はどうなるだろうか。そんなときにでも小細工するんだろうか。

技術が、歌にとって不可欠ではないし、技術と「いい歌」というのは別次元の話ということが実感できるかもしれない。

君が、自分は苦労して練習を続けつつも、技術や練習のない歌でも人を感動させることができることを知れば、たとえ相手が素人でも誰でも、裸の心で歌を聴き、その人の歌をいろいろに楽しめるようになるだろう。

無学、論に屈せずというのは、旭川市旭山動物園の以前の館長、小菅正夫さんのインタビューで見た言葉だ。たとえ学がなくても、思いを貫き精進することの凄さを表している。

ぶっちゃけ完コピなどしなくても、人の心をつかむ歌は歌えるようになる。ただしそれは、何もしなくても簡単にできるということじゃない。

完コピをしてもしなくてもどっちでもよく、何を目指し、何をするかを本人が自分で考え、たとえそれが大変でもやりきるということだと思う。

歌の技術も最近は情報だけは入手しやすい。

しかし技術の名前を知っていようが、技術があろうがなかろうが、君自身が聴く人に伝わる歌を歌うために何をどうするかということが一番大切なのだ。

そのためには、苦労して得た技術でも、いったん捨ててしまうことも必要になるかもしれない。

捨てるのだけれども、その苦労して少しずつ技術を得てきた過程を通過しないと、捨てることもできないので、その過程はやはり必要なことだったと言える。

書くとわかりにくいが、「必要」と「必要じゃないから捨てる」がセットなのだ。

技術を尽くせば、精密になり、繊細にはなる。
パワフルになって安定感も出てくるかもしれない。

しかしそれが人を魅了し、元気づけるとは限らない。

時には、労力をかけて作ったものをぶち壊すことで、何かが芽生えることもあるのだ。


思いがけないことが起こる。それこそ音楽の楽しさのひとつ、だよねえ。

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