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時間がないなら、ゴールがないなら、自分で作るしかない。

今日は仕事関係の勉強会に参加した。プログラマやシステムエンジニアの見習いなので、それ関係。具体的にはデータベースについて。

まだサワリしか学べていないが、データベースと問い合わせ言語について考えるのは面白い。

今まではもっぱら、クエリ(データベースを操作するためのプログラムのようなもの)を書くことに面白さを見出していた。しかし、データを扱っているうちに、0からデータの枠組みを設計して、そこにデータを流し込んで操作する、ようなことも学びたくなり、勉強会に至る。学びたいことができると、人生に潤いが出る。

システムに関しては、(もちろん、システム以外に関しても、だけれど)生粋の初学者だ。勉強をすることで、少しずつ知識は積み上げられてきている。ただし、学びに終わりはない。今ある知識で慢心していてはならない。それは、今後、さらに持っている知識が増えたとしても。

『精神的に向上心のない者はばかだ』とは夏目漱石『こころ』の台詞で、私は何もせずに布団に転がっている自分にその言葉を向けることで怠惰な自分を鼓舞している。努力、っていう泥臭いワードはステロタイプで嫌われがちな概念だという肌感覚がある。努力しないで強くなれるならそれに越したことはないけど、私にはその素質はなかった。だから努力してきた、気がする。でも、私の努力ってやり方が間違っていたんじゃないか、と思うことが度々ある。

これまで、私の努力はその場限りの努力だった。

学生時代は受験を1つのゴールにして勉強をしていた。振り返ってみれば、愚策だったように感じる。おかげで明確なゴールがないステップに到達した大学生になって、私は何をやりたいのか分からなくなった。中学時代に通っていた進学塾の講師陣が「受かっちゃえば何してもいいし、全部忘れてもいい」って口に揃えて言っていたのを思い出す。随分と無責任な鼓舞だな、と呆れたが、ビジネスなんだから割り切るしかないのだろう。

将来について明確に考えられる人は素晴らしい。
自分からゴールを決めて、それに向かってひたすら努力できる人間に憧れている。

社会人になって、20年、30年先を考えるようになって、明確なゴールのなさに今更ながら気づいた。途方も無い旅路の起点にたっている。ゴールが存在しないとき、酷く刹那主義になってしまうことを恐れた。過去も未来も捨て置いて、今この瞬間を謳歌する。何も考えずに生きて、そして、いつの間にか自分の首を真綿で締めている。そんな直列回路のような人生になってしまったら、長続きするものも続かないだろう。つまり、人生なんかは簡単に破綻する。

ゴールのなさだけではない。社会人になって時間の有限さに触れた。受動的な姿勢は許されなかった。(学生であろうと、受動的であるより能動的であるほうが好ましいのは確かだけれども)毎日8時間の拘束時間。5時半起き、23時就寝。限られた時間の中でやりくりするためには時間も無駄にできない。

……正直なところ、時間が有り余っていた日々よりも、今のほうが充実感はあった。ベッドに転がってネットサーフィンやソシャゲをして1日を潰すような生活は、日が暮れてから涙が出そうになる。それよりかは、毎日決まった時間にルーチンワークをこなして、予定もきっちり埋めて、日々のタスクをこなしていく方が身も心も引き締まる。それに、時間が限りある方が、むしろ現実逃避のために思考をフルに回すことができる。これは怠け者の体質で、あまり褒められたものではないけれど。

限られた時間、余りあるやりたいこと。私はそれらを1つずつ天秤にかけながら、いくつかのゴールを定めるようになった。

念頭にあるのは趣味、仕事。次点で将来。小説の公募に応募する。賞を取る。バイクを買ってソロキャンプを始める……という趣味としてのゴールがあって、情報処理試験のスペシャリスト資格を取る、という仕事面でのゴールがある。将来を考えると、貯金だったり、一人暮らしだったり、まだまだたくさんゴールはある。けれど、それらはゴールでありながら、通過点に過ぎない。ゴールを乗り越えたら、たくさん自分を褒めてやって、次のゴールを定める。『俺たちの戦いはこれからだ!』のスタンス。

過去を振り返りすぎず、前に進もうとする意志を強く生きていく。まだまだこれから。何にだってなれる。そんな気がする。


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