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平等でありたい自分と「仕方がない」という言葉。バイタクおじさんの話から。

前回、ホーチミンでの
バイタクおじさんとの記事を書きながら、
私の内側には
なんとなく心地悪さが漂っていた。

私は、
路上生活をする子たちには
慈悲深い気持ちになるのに、
バイタクのおじさんには
「ぼったくり」と
嫌な気持ちになっていたのだ。

あのおじさんたちが
ただただ路上生活をしていたら
どうだっただろうか。

大人か子どもかとか
貧しさの程度は置いておいて、
自分に対し何もしてこない人には
慈悲深くなり、
積極的にアクションを起こしてくる人には
嫌な気持ちを持ってしまう。

なんとも身勝手な気がして、
とても心地悪かった。
そして、
心地悪さから脱するため、
この身勝手さを説明する理屈を
組み立てようとしたが
私にはできなかった。

行きついた先は
「自分も人間である以上
外から来るものに対し心が動くことは
当然で、仕方のないことかもしれないな…」
ということだった。


自分で書きながら
「なんだそれ」という感じだ。

時々、「仕方がない」という言葉が
良く思っていない状態を正当化したり
良くすることを諦める言葉のように思えて
嫌になる。

とても人間臭い言葉だと思うが
人間臭い自分が嫌になる。


この根底にある自分の気持ちは
何なのかを考えたとき、
チグハグなものが心地悪く、
筋を通したいと思ってしまうその奥には、
「公平、平等であろうとする、
正しくあろうとする自分がいる。」
ことに気がついた。

子供の頃から、
たとえ自分のことでなくても、
平等でないことや
筋が通っていないことに対して
腹が立ち、辛く、悲しく、悔しくなっていた。
それはそれは生きづらかった。

子供の頃のまっすぐな自分は好きである。
大人になった今も
そんな自分は生きているけれども、
大人になった今だからこそ、
公平であろうとする自分の中にも
「筋の通らない、心地の悪い不平等さ」が
たしかに存在するということを
受け入れることにしようと思う。

大人になるって、
自分の中の心地悪さを
諦める、放棄するということではなく、
受け入れていくことかもしれないなと
今これを書きながら感じている。

「仕方がない」も
状態を諦めるのではなく
受け入れる言葉なのかもしれない。


余談:

正しくあろうとするのも
あくまで自分基準の正しさであって、
世の中の全員に
当てはまるものではきっとない。
筋を通すという「筋」も同じく。

だから私が考える公平さ・平等さも
きっと私基準のものでしかなく、
ほかの人からの視点では
まったく不平等なものかもしれない。

なんだか世の中が
すごく曖昧でいい加減なものに思える。

正しさなんて存在しないのかもしれない。

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