デミロマンティック
タイトルの「デミロマンティック」、これは自分に該当する言葉である。
○デミロマンティック…初対面や関係の浅いうちだと恋愛感情が湧かず、親しく強い絆のある者に対してのみ恋愛感情が湧く人のこと
私は最近このデミロマンティックという単語を耳してからというもの、自分の中のズレが整った様に思う。
私は人を好きにならない人間なのか?
そう思いつつも女の子で好きな子がいたこともあるし、小学校の時なんかは異性であっても○○くんが好き!となっていたものだから、そうとも言いきれないな…なんて靄がかかった状態であった。
しかしこのデミロマンティックという単語と出会い、自分という人間を正しくより深く理解出来たように思う。
昨今流行っているマッチングアプリ。
あれは本当に自分にとっては未知の領域。"他人"と恋や愛を育む感覚が全く理解できないのである。
マッチングをし、連絡を取り、対面し、お互い良さそうならお付き合いを始める…そんな人間関係の育み方がわからないのだ。できないのだ。
なぜなら私のようなデミロマンティックの者にとって恋や愛といったものは自分の精神と深く繋がっていて特別な相手に対してのみ湧き上がる感情だからである。
それが普通のことで、みんなはゲームで言うところのショートカットをしているに過ぎないと思っていたくらいだ。
ようするに、恋愛関係になる前に自分自身の中で相手が"何者か"にならなくてはならないのだ。
と、なると生きてる間に恋をする機会がそうでない者より希少、稀、その通りである。
人を日の浅いうちに好きになることが出来ないから
いざ誰かと結婚関係になろうと所謂婚活を始めてみたところで、その努力が納得いく形で実ることがデミロマンティックであることによって若干難航である。
しかしながら、デメリットばかり挙げる形になっていたこれまでだが全く負い目なんてものは間違っても感じていない。
なぜならこんな言葉に出会ったからだ。
「人よりゆっくりと変化する自分自身の心を堪能するといい」
この言葉と出会い、感じ方が変わり、ほっとした。安心したのだ。
ゆっくりと、移ろい、揺らぎ、漂う空白の心を堪能して良いのだ、とそう思えたのだ。心底嬉しかった。
私は焦ることが大の苦手だ。
その為、"間"を楽しむ余裕というのは生きてる上で至高なものと捉えている。白でも黒でもない領域。そこが落ち着くのだ。
それが負い目に思わない1番の理由だと思う。
いつかどこかで恋愛感情を持つほど深い人間関係が異性とつくられるかもしれない。だけどそれは自分の歩幅で歩いてたまたまそんなことが起きたらそれもそれで楽しそうだね、くらいの心持ちで私は今日も自分を満たすことにエネルギーを使ってゆきたい。
幸福というのは状態ではなく瞬間であり、また感じる心が器となる以上、その器を磨くことに胆力を注いだ方がより効率的に幸福な人生を歩むことが出来る、そう思うからだ。
それは人や自分の魂を傷つけることでなければ何でもいい。小さなことでもなんでも良いのだ。
乙凪美優
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