喜劇役者の生きた道。
長年溜めてきた疲れは腰に出る、足に出る。
「よっこらしょ」
たいした所作ではないのに、栄作さんは立ち上がるたびに一山超えてきたような難儀の吐息で喉が震える。
「あー」
「栄作さん、その仕事を終えた後みたいな達成感まがいのあー、やめてもらえません? 本番はこれからなんすから、気が抜けるったらありゃしない。これから始まるんですよ。わかってます?」
「嗚呼、ああ」
別にボケたわけじゃないことはわかっている。これまで何度も飽きることなくやってきたのだ。オレに指図されるまでもなく、栄作さんはやるべきことを自分自身わかっている。だから釈迦に説法であることも重々承知はしている。だがそのわかっていないふうの錆びついた栄作さんの動きに、つい葉っぱをかけてしまうのだ。
「大丈夫っすか? できます?」
「あああ、あ、もう大丈夫」
抜けた魂が元の鞘に戻ったようなテンポ遅れの娑婆への生還に、栄作さんは丸まっていた背中をキッと伸ばした。さすがに65歳を過ぎると、立ち姿は若かりしころと違って凛という姿からはかけ離れてくる。積み上げた経験で重厚感こそ増しているものの、スッともしていないし、シャキッともできない。どんと構えているのと少し違って、でんと居座っているふうだ。
ウルトラマンになぞらえると、わかってもらいやすいかもしれない。かつては華麗に着地できたのに、今の栄作さんときたら、ウルトラマンの隣に落ちてきて半分潰れた牡丹餅そのものだ。
「いいんだよ、細かいこたあ。ウケりゃあいいのよ。この世界、それだけ。だろ?」
神経質なくらいに細部にこだわってきた栄作さんらしからぬ言葉に、オレは寂しい。だけどオレは知っている。自分の演技を甘く許容するようになったのは、寄る年波に精神が弱音を吐いたからではない。気持ちはベストを尽くしたいのに、体のほうが言うことを聞いてくれなくなったからだ。
東京を皮切りに北は北海道札幌から南は九州福岡まで、落語家についてまわる全国行脚の前座旅。その初日の仙台公演。
「行きますよ。準備、できました?」
「大丈夫だって。立ち上がってしまえばこっちのもんなんだから」
寄席の前座で演る演目は、ドタバタ喜劇。オレたちにはこれしかない、とあなたは信じて疑わない。ふた回り歳の離れた栄作も笑いの世界で生きてきた人だ、これまでの芸風をブレることなくきっちり踏襲して、生涯現役を貫くことが幸せよと言って憚らない、そんな栄作の思いにあなたはずっと応えていきたいと思っている。
あなたはいつだって栄作に尊厳を探し、常日頃より敬っているけれども、人気の天秤秤は昨今、あなたのほうに傾き始めている。
コンビ自体が世間に面白がられているわけではなかった。お笑いの座で鳥を務めたことは一度もないし、テレビからお声が掛かれば決まって花形スター・ドタキャンの穴埋めとしての代打だった。
井戸の底に二人を並べておいたなら、覗き込んで見える二人の頭はどっこいどっこいの背比べ。それでも、そんなコンビのあなたにだけピンの仕事依頼がたまに来る。
だけどあなたはこれまでその申し出を受けたことはない。これからも受けるつもりはない。栄作と共演してこその芸風、そう言って申し出を跳ねつけてきた。意固地なくらいに頑なに断るその意地の裏側で、(二人で出演させてもらえませんか)と叫ぶ切実な声なき願いを、誰一人として汲もうとはしてくれなかった。
いや、本当はとっくに気づいているんだ、とあなたは思う。演技にキレのなくなった二人のコントなら要らない、と言われていることを。その原因が人災みたいなもの、と言った某局ディレクターの真に言いたかったことも。
ある番組出演依頼でこんなことを言われたことがあった。
「あんた一人ならスターにしてあげられるのに」
露骨やなあ。関西人でもないのに大阪弁でぼやいた。スターの金の卵の一本釣り。本当に磨けば光る原石かどうかは自身の目では確かめようもなかったけれど、これがフィッシングの詐欺だったら口八丁手八丁でケムに巻いてやるところだった。
あなたはその時、迂闊にも夢を出現させてしまった。国立のホールで鳥を勤める栄光の光を浴びる夢を。もちろん気の迷いであることはわかっている、とあなたはあなた自身を説得にかかった。だけど、欲求は押さえても、蹴散らしても、コンクリの隙間から命を伸ばす雑草にきりがないのと同じで、殺しても何度でもその夢は蘇ってきた。
振り払わねば。悪霊、退散。
あれからあなたは(葛藤などで悩むもんか)と甘い誘惑を固く結んだ唇で跳ねつけようとしている。
「最近仁王様に似てきたね」と栄作があなたを茶化すが、言われたあと、あなたは栄作が寂しい顔をするのを見逃したことはなかったよね。
栄作さんは全部わかっているんじゃないのかな。そろそろ潮時だってことを。
栄作さんの言葉の節に、ときどきオレの独立を促す種みたいなものを感じることがある。
「枯れた木にゃ花は咲かないけど、かつて咲かした花の種は地面に落ちて芽を出さなきゃならねーからね」
未だ現役を固辞する栄作の動きに、このごろ綻びが出始めていることをあなたは知っている。走って転んで鼻を折ったことなんてこれまでなかったことだった。転んでは立ち上がって肉弾戦のコントをやって筋肉痛になった、なんてこともありえなかった。
それなのに、初日で栄作さん、舞台の途中でこむら返り。
「赤っ恥をかいちまったよ」
舞台を終えて強がっていたけれど、栄作さんがいちばんコトの重大さを知っている。笑って済ましてくれるのは観客だけだ。その観客が笑えないとなると、それはそれで一大事を引き起こす。舞台のこちら側で金勘定に余念のない目が刃の光と化して光れば、これから先の興行演目が突如変わってしまうことだってある。翌週の盛岡公演からコンビの名前が消え失せることだって起こりうる現実なのだ。
その後、栄作さんは人目を忍んで鬼のように舞台の天井を睨み上げていた。
「これを節目に引退するつもりじゃ……」
舞台裏からぽつりとこぼれたあなたの独り言を栄作が拾う。
「あんだって?」
地獄耳?
だけど栄作の目が追ったのは、あなたのいる舞台裏にではなく、鍾乳石のようにバトンからぶら下がっている照明ライトの合間に広がる底の知れない闇に、だった。
永久勤続はまさに究極の夢。だけど、人は誰だってどこかで力尽きる。栄作さん、あんたはそんな線引きを自分ではできずにいる。気持ちは未来の光を未だ追いかけていて、諦めたくはない。
だから悩み、決めあぐねているんだね。
生涯現役、その身が滅ぶまで喜劇に生きる、なんて格好のいい生き方は夢のまた夢。栄作さん、あんたは充分に働いてきたじゃないか。
人には引き際がある。
あなたは覚悟を決める。このまま惰性で仕事をしていたら、栄作はいつかきっと取り返しのつかないことになる。
「オレが引導渡してやらなきゃな」
大丈夫。オレはあんたとの20年をネタにして、観客から笑いの渦をとってやる。草葉の陰からというにはあまりに寂しすぎるから、舞台の影からこっそりオレを見守っていてくれよ。頼んます。
覚悟を決めて、舞台裏から天井を見上げる栄作にあなたは声をかける。
「栄作さん」
うっすらと水気を含んだ栄作の瞳が「やっときてくれたか」と語っていた。
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