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止まり木図書館司書ーー裸を売る女。

 セブン芸能で働いているんですか。
「そう」
 ということは、ヌード?
 カウンターでアタリメをつまみあげた彼女は、干からびて焼かれたイカから僕に目を移し、瞳を見開いた。さも珍しいものでも発見したように、僕の目を覗き込んでくる。
 当たり前と言えば当たり前か。セブン芸能ときいて裸を売りにするプロダクションに思い当たるのは、業界の中でもごく限られたエリア界隈の住人に限る。芸能と名はついているが、メディアへの露出は皆無で、もっぱら小さな小屋で細々とやっている。
 小柄で綺麗な女だった。グラマラスではないが、清楚に見えて裸である。衣服に隠された男を惑わす手招きに、つい鼻息が荒くなる。どんな乳房なのか、その頂点に載せられた乳首は? ふた言み言の正体という衣服から色香漂う素肌の肩を覗き込んだような会話で、その乳首を固くしただろうか。
 僕の鼻息をいなすようにして彼女は言葉の絡み合いから身を躱わす。裸にのぼせたのは僕だけであり、彼女にとって彼女の裸は仕事の衣装であったと悟った。
「大学休学してね」
 話は色香から現実に戻っていく。
 女子大生だったんですね。ずいぶんお姉さんに見えますよね。
「通っていれば3年」
 タメだ。訊くと臆することなく御茶ノ水女子大と答えた。
 おそらく真実なのだろう。名門女子大現役と言われれば、肝の座り具合や目配せ気配りが洗練されていることにも合点がいく。
 あっさり真実を吐露したのも、僕を試す意味合いが含まれていることに気がついた。
 金の工面で割りのいいバイトとして割り切ってのことか? 苦学生ならひとり居酒屋の止まり木で、吟醸酒など傾けはしないだろう。ならば、やりたいことのためにひと肌脱いだというのか。

「このあと、うちにくる?」
 ほろ酔いを少し過ぎて半ば出来上がった状態で彼女は僕を誘った。
 据え膳を食うのは乗り気なほうではなかったけれど、この時は気持ちはすでにいきり立っていた。彼女の注文はアタリメひとつだけだったけど、杯は5、6回重ねていた。一合グラスの内実はよくわからないけど、2割サバ読んでいたって6杯飲めば正味5合である。
 いやはや。女は飲んでその気になるけど、男は飲んでその気にはなってもダメになる。
 大丈夫だろうか?
 勘定を済ませたカウンターには、いくつも頼まなかった平らげられた皿が数点、まだらに散らばっていた。
 彼女はアタリメでマヨネーズを嫌う派らしい。まんじゅうのように膨らみを保ったマヨネーズだけが手付かずで、それは見せても触らせない彼女の乳房を思わせた。

 彼女の部屋は三鷹駅から10分ほど離れた木造アパートの1階だった。2DKという間取りは昭和の建物で、部屋にはみかん箱を思わせる座卓がひとつ。キッチンに生活感が漂うだけで、布団は押入れにしまわれてあり、ミニマリストに徹する暮らしがうかがい知れる。
「飲む?」
 そうだね。
「その前にキスする?」
 そうだね。
 彼女が誘って、僕が彼女の唇を引き寄せた。

 気持ちよく晴れ渡った朝だった。
 そういえば、名前をまだ訊いていなかった。訊いてもいい?
「もちろん」
 彼女の家を後にする玄関の内側から彼女は外に踏み出した僕に向けてサイカと発した。
 サイカ。采花か、才華か、韻だけではどういった漢字が当てられているかわからなかったけれども、イシグロ・カズオみたいに韻で生きて久しい人もいる。当てた漢字を知りたくなるのは、親が子に託した夢を聞くようなもので、僕にはあまり意味のないことのように思われた。少なくともその時点では。その時に必要だったのは、彼女を街のどこかで呼び止める際に必要な、彼女を特定できるふたりにとっての暗号だった。
「あなたは?」
 フルネームで名前を名乗った後で、「何をしているの?」と聞かれた。
 僕は、止まり木図書館で図書館司書をしていると答えた。
「じゃあ」
 彼女は僕を「止まり木司書さん」と呼ぶことにすると言った。
 それじゃあ何のために名前を教えたのかわからないと、面白くない僕は不貞腐れた顔を少し強調して反論した。
「だってあなたの名前、平凡すぎてつまらないんだもの。人混みであなたを呼び止めるとき、止まり木司書さんだったら、間違いなくあなた以外にはいないでしょう?」
 もっともな言い分だったけど、それじゃあ目的の半分は外れることになることを僕は彼女に進言した。
「どうして?」
 その呼び方だと、いつもは無関心な人の興味を掘り起こしてしまう。
 彼女は「ん?」と短く声をあげて、子犬のように考え込んだ。それから「まさしく」と納得する。
「それはそれでいいんじゃない。雑多な声の交錯に紛れてしまうふたりより、誰が見ても独立したふたりでいられる」

 いつから僕と彼女がひとりずつからふたりになったのかわからない。おそらくなかなか訪れない夜の眠りに就く前、昨夜の交流で散った火花を飲み込んだ瞬間から。

 いずれにしても、悪い気はしなかった。彼女もまた、街ゆく人々の中から僕を見つけたがっている。
 僕は、またね、と手を出した。彼女は僕の手を取り引き寄せて、とろける吐息を纏わせるキスを重ねた。僕もまた、とろけるキスにとろけるキスで応じたのだった。

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