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いつかは「食っちゃ寝る」だけの犬猫のように暮らしたいなあ、と昭和の人は思ってた。

 昭和回帰がちょっとしたブームになって久しい。終わってしまったものへのノスタルジックとはちょっと違う。不透明な行き先に道を見失ってしまっているのかなあ。近過去を辿ることで、もやの立ち込める未来への壁をぶち破ろうとしているのかもしれない。いや、それとも少し違う気がする。

 味わい。生きることで得られるテイストみたいなものを追いかけているというのが、なんとなく近い解答のような気がする。

 たしかに昭和は、令和にはない、出汁の効いた和製スパイスの味がする。

 規制が緩く、どんぶり勘定がまかりとおっていた時代。プライバシーもプラベートもおかまいなしに、ずかずかと他人の家に上がり込む図々しさ。子供用番組でもおっぱいがぽろりんするという、今となっては信じられない嬉しいハプニングにあふれていた時代。匿名で剥き出しのやわな精神に鋭利な槍を突き刺して、傷口に塩を塗り込むような陰鬱なストレス発散など、まだ産声さえあげていなかった。

 ゆるいけど、今より人情というヴェールがふんわりと社会にかぶせられている時代だった。

 だけど、忙しかった。24時間戦えとせっつかれていたし、多忙が自慢の素だった。亭主は外で元気に働いていればよし、家は留守がちでなおよしの時代。テレワークの発想などつゆほどもなく、長距離を短時間で移動する新幹線通勤がかっこいい時代でもあった。

 世界を駆けるサラリーマンの外面には元気印の焼印が押され、躍動が装われていた節がある。急かされてもいたし、結果を常に求められてもいた。つまりは、常に仕事に追い立てられていたのだ。だから、いつかぐうたらしたいなあと、心の底で未来の怠惰を夢見てた。

 令和とは違う。個人を高めることより、せわしない社会の荒波をほかのみんなと一緒に泳ぎきることのほうが優先されていた。
 本音は、多忙から解放されたいと思っていた。

 昭和の迷言のひとつに、こんなのがある。
「嗚呼、犬猫のように暮らしたいなあ」
 こんな自堕落な言葉がこぼれるくらい、人は限界まで働かされていた。

 今は違う。人にとって犬はワンコさま、猫はニャンコさまとなり、崇め祀られている。

 なんだ。令和も昭和もあんまり変わっていないじゃないか。会社のシモベは時代を変えて、イヌネコのシモベに鞍替えしただけだ。

 それでも人は愚かにも再び歴史を繰り返す。
「嗚呼、ワンコさま、ニャンコさまのように暮らしたいなあ」


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