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虚劇『懐かれる男』

 妙に子供に懐かれる。そんな特技があったお覚えはないが、最近になって子供のほうから声をかけられ、取り入られる。とくだん子供が好きなわけではない。どちらかといえば煩わしく鬱陶しい。いい大人がなんで子供の相手をせにゃならんのか、腹立たしく思えてくることもある。
 子供を安心させるフェロモンでも発しているのだろうか。だとしても、見知らぬ大人に子供が心を許すのは危ない。実際口にして諭したこともあった。だが逆効果で、子供はかえって面白がった。
 意識してはこなかったが、元来が子供好きなのかもしれない。子供が心の内面で見る霊的なものと同様、子供好きの霊的な部分がオーラとなって内在し、子らはそいつを的確に捉えるのかもしれなかった。納得に至らない可能性ならなんぼだって考えられるが、腑に落ちる理由は何ひとつなかった。自分で話しておいてお恥ずかしい限りだが、そのそも「子供好きの霊的なオーラ」っていったい何だ? わけ、わからへん。

 子供のうちは嘘の服を透かして王様の裸を見るというが、どうか、他の大人を透かしてオレだけを見ないでくれ。寄ってくるんじゃない。懐くな。どこかに行ってくれ。

 先だっても内覧で地元の物件を案内している間合いに子供が割って入ってきた。ちょうど案内と案内の合間の休息時、息抜きで腰掛けた公園のベンチに、母親の手をぐいと引いて、来なくてもいいのに未就学の男の子が近づいてきた。
 まさかな。オレに用事があるわけじゃないよな。オレにはお前を相手にする義理も筋合いもない。これまでの経験が、もしやまた子供にまとわりつかれるんじゃないか、そんな恐怖を呼び覚ましただけだよな。オレには関係ない。お前とは無関係なんだ。赤の他人じゃないか。間違っても話しかけるんじゃない。
 5メートルまで近づいてきた。4メートル、3メートル……。視線はまっすぐオレに注がれている。
「おじちゃん、あそぼ」
 来た。

 母親がドギマギしている。「あの、どこかでお会いしたかしら?」子供とオレとの関係性に心当たりがないのだろう。半ば疑心暗鬼になって、上げたオレの顔を直視してくる。
「今初めてあなたのお子さんに声をかけられました」
 オレはきっぱり言ってやった。オレに関わるんじゃない。お前だけじゃない。お前の母親もだ。束の間の休息に、缶コーヒー1本分の息抜きに、ズカズカと入り込んでくるんじゃない。
「武人くん、どなたかと勘違いしているみたいねえ。武人くんの言ってるのはどのおじさんのこと? このおじさんじゃないみたいよ」子供と視線の高さを合わせ、母親が訪ねている。おいおい、この状況で気を遣うのは子供にじゃないだろう。オレに気を遣えよ。それが大人n生きる道っていうやつじゃないのかい?
 まあ、いい。筋を通せない大人は今に始まったことじゃない。「ら」抜き言葉がそのうち浸透していくみたいにして、筋を通せぬ大人もじき当たり前になっていく。「食べれない」「着れない」だとお? 「食べられない」「着られない」だろうよ。こんこんちきめ。武人くん、だいじょうぶ? じゃなくて、おじさん、大丈夫? だろ。すっとこどっこいめ。
 子供も子供で母親の心配を真に受けて、子供は不釣り合いにでかい頭を左右にぐわぐわと振っている。
 子供は頭を降り終えるとビシッと人差し指をオレに向け「誰とも間違ってないよ。ぼく、このおじちゃんと遊ぶんだ」と言い切りやがった。
 あんなに潔く迷いのない指さしに、オレはこれまで出会ったことがなかった。親にさえさされたことのない指を、今日初めて会った小生意気なガキにさされている。まるで授業中に読んでいた漫画を先生に指摘されたみたいに、オレは罪の意識に苛まれ、良心の淵に立たされた。足下の切り立っていることといったら、生きた心地をつま先のところまでえぐられたみたいだった。いいえ、オレは遠い昔から、授業中に漫画を読んだことなどありませにょ。だから罪悪感の淵に立たされるどころか、廊下に立たされたことさえ一度もない。
 第一、なんでこんな小僧に上から目線でものを言われなきゃならないんだ? 言われたオレのほうが恐縮しなけりゃならんのだ? 
「失礼します」
 オレはそう残してベンチから逃げるように親子から立ち去った。
 この状況、まるでオレは認めたみたいじゃないか。すべてはオレの責任です、でも抱えきれないから責任をここに置き去りにさせてください。さもなければオレは重責に耐えかね押し潰されて死んでしまいます、と言ったのと同じじゃないか?
 なんでオレが、尻尾を巻いて逃げ出すような真似をしなくちゃならないんだ? そもそも悪いことなど、何ひとつ犯しちゃいない。
 なのにオレは、つい状況に呑まれて失礼しますと言っちまった。
 ところでオレは誰に対して謙虚に出たのだ? 初対面で疑心暗鬼の母親に? それとも年端もいかない子供に対して?
 ふう、ここまで離れりゃもう追ってはこないだろう。ずいぶん距離を稼いだはずだ。オレは立ち止まり、振り返った。子供の足じゃ、そう簡単にここまで来られるはずがない。なのにあのガキときたら「おじちゃぁーん」と叫びながら、歩幅のおぼつかないヨタヨタ走りでオレんとこまで来ようとしている。
 オレは駆けた。思い切り逃げた。黄色に変わる寸前の信号を抜け、横断歩道を渡った。
 大手企業のオフィスで埋まる高層ビルに駆け込み、裏口からこっそり出た。
 もう一度後ろを振り向く。もう、子供の姿はなかった。頭の中に「おじちゃぁーん」と叫ぶ子供の声は、永久運動のように頭蓋骨の内側でこだまし続けていた。

 似たようなことがオレには何度も起きる。ぬいぐるみを落として振り向いた女の子に、後ろを歩いていたオレが拾って渡してやったことがある。
「ありがと」と女の子は言った。普通なら「どういたしまして」で触れ合った他生の縁は幕を閉じる。だが、その時違った。女の子がぱちくり目を瞬かせたのを皮切りに、閉じられたはずの幕が再び開いてしまった。
「知ってる? このお人形はね」女の子は、オレと繋がろうとしている。またかと思った。オレには似たようなことがこのように、デジャブみたいにして頻繁に起こる。厄介なのは全部が全部オリジナルで、脈絡に繋がりはない。共通項はただひとつ。
『子供はオレに懐こうとしている』
 お願いだから君の手を繋いでいるパパの手に従順に引かれていってくれとオレは願う。女の子のパパは足元で起こっている異変に気づくことなく、少しの乱れも顕すことなく、女の子の手を引き続けている。「これはね、ユウがね、1才の時にお母さんが」女の子はさり気なく自分の名前をオレに伝えた。巧みな技に感心したら、しかとユウという名前が記憶に刻まれてしまった。しまった、またやられてしまった。
 オレに苦い思いを残した女の子は、オレの心情になど気をとめる素振りのひとつも見せず、歩くペースを緩めないパパに引きずられるように遠のいていく。なのに、話すことをやめようとしなかった。オレは立ち止まって小さくなっていく父娘を見守っていた。ざまあみろ。これで一生のお別れだ、ユウ。それでも女の子は悪あがきで語ることをやめてはいなかった。その様子から、女の子はまだオレに語りかけている。だが雑踏に紛れてその声はもう聞こえない。
 ぷつんと赤い糸の切れる音がした。これでおしまい。そう思ったら、頭上のたらいに溜め込んだ安堵が一気に上から降ってきた。
 踵を返す。女の子と逆方向を見ざそう。保険は保険金を積めばその分安心を大きくできる。そして歩み出そうとした刹那、足元にいやな気配を感じた。
「人の話、ちゃんと聞いてる?」ユウがひときわでかい声で、オレに話しかけてきた。
「お前、パパは?」
「うざいから放ってる」

 ユウとは、後日談がある。営業で客を近くの商店街に案内していた際に、運悪く再開してしまった。
 あちゃあ、会っちゃったよ。手のひらを衝立ついたてがわりに顔を隠したつもりでも、尻が出ていちゃ意図は叶わん。
「あ、おじさん」
 あ、おじさんじゃねーよ、馴れ馴れしく声をかけるんじゃねぇ。オレは、迷惑なんだよの意志を顔に表し睨みつけた。
 するとユウ「まあまあ」となんだか宥めている口調。オレは宥められてる気分になって、呆気にとられる。すかさずユウ、その隙を突いてくる。「そうむきにならないで」と続けられた時にゃあ、こんのやろうと地にこぼされた怒りが心頭に上がってきて、頭をこづいてやりたくなった。
 とはいえ「この前はちゃんとお礼を言えずにごめんなさい」と殊勝に謝られたものだから、こっちもむきになってすまなかったと気持ちを鎮めようと努めたのだった。
 ところが、だ。「こっちも悪かったけど、そっちも悪かったんだからね。私の話を最後まで聞かなかったじゃない。どういうつもり?」と言われた時にゃあ、さすがに堪忍袋の緒が切れた。くぉんのガキぃ。
 脅すつもりで手を振り上げたのがいけなかった。
「子供に暴力はいけません」後ろから、オレが連れていた客に振り上げた手を押さえられてしまった。客はオレに不審と不満の表情を浮かべ、唾を吐き出すみたいに捨て台詞を吐いて帰ってしまった。

 やれやれ。

 ユウはといえば、ぷくとぽっぺを膨らませ「レディに失礼なことをするからよ」と大人ぶっている。もう、怒る気はどこかに失せていた。
「オレが、お前に、失礼なことを、いつした?」冷静に訊いてみる。
 するとユウは「じゃあ教えてあげてもいいけど、話は長くなるから覚悟して。そうね、お向かいにいいパパーラーがあるからそこで」
 百歩譲ってそれは受け入れるとして、その、お前の手を握ってさっきから傍観しているパパ、だっけ? パパだよな、この前と同じ人だもの。そのパパはどうするつもり?
 聞いたら「大丈夫、パーラーに連れて行くから」とほざきやがった。

 このようにしてオレは異常に子供に懐かれる。
「お願いだから金輪際、いっさい誰もオレに懐かないでくれ〜」

 思いは虚しく空転し、あれから5年経った今ではあまたの子供たちに追っかけをされる毎日に重くなった頭をさらに悩ませている。

 オレはこの特性をオペラになぞらえている。
 虚劇『懐かれる男』 第六幕六楽章六。6が三つ揃うと不吉な物語が幕を開ける。

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