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人は誰だって100パーセントの存在価値を内に秘めているんだよ。

 人はあとになって振り返るために思い出を刻んでいるのではないかと思えることがある。今現在は待ったなしに流星の如く近づいてきては目の前に現れて通り過ぎる一瞬で終わるけど、経験はのちのち、幾度となく繰り返される。比率は圧倒的に振り返っている時間のほうが長い。極端な言い方をすれば、思い出は夏に張り出してくる高気圧みたいにして、一生の時間を支配していく。

 何か特別なことをしてこなくても、特別ではない凡庸な中にも平等に振り返る時間は刻まれていく。海辺で生きた人は海辺の思い出に100パーセント染まる。人生の大半を海上で生きた人は、好天荒天入り乱れ、波乱万丈でありながらも、海上の思い出が100パーセントの大半を占めていく。事業で成功し、名を残す生き方をする方もいる。建設会社の営業職を趣味の釣りを支える収入源とする者もいる。それぞれに今現在を過ごし、己の通ってきた道をどこかの地点で立ち止まり、振り返る。

 それぞれの振り返り時間は、振り返っている者だけの所有物。隣の芝生を青く見たことがあったって、己の刻んできた思い出に勝るものはない。宝物は隣の芝生にはない。己の思い出の中にある。

 人は過去を振り返る時、踵を返して後ろを向いて、目を細めて遠くを見つめる。思い出は辿ってきた一方通行の道の途中に置いてきてしまったものだ。引き返せば切符を切られる。罰金で済む類のものではなく、意識の継続を断ち切られてしまう。もっといえば、それは虚無に返るということ。失う瞬間、線で繋がっていた現在と過去が点となる。ほんの一瞬の、風前の灯が最期のひと燃えを振り絞るみたいにして大きく煌めいては消える点となって。

 これまで考えてきたことを、時代の趨勢に合わせて組み替えて考え直すのも、未来を見据えてのことでありながら、大きな意味で過去を振り返る範疇に片足突っ込んでいることになる。人には経験を活かす知能が備わっている。同じ過ちは犯さない、二度と同じ失敗はしない、というのも、過去を振り返り学んだ知恵の賜物。
 振り返りの時間は、あらゆる場面で活用されている。

 このように振り返りの時間は一枚岩ではない。ここでは2種ほど取り上げており、ひとつは過去にノスタルジックを誘発するスイッチであり、もうひとつはステップアップの布石である。振り返りはスピリチュアルであり、現実的である。
 そしてひとりにひとつずつの『しまわれた顔』でもある。誰に閲覧させるものでもなく、誰と比べられるようなものでもない。

 人はその人個人の価値において100パーセントの存在であり、100パーセント寸分違わぬ存在意義があり、内なる思い出に価値を見いだすことのできる知の個体である。

 比較できるようなものではないし、比べるようなことがあってはならない。客観的採点などできる類のものではない。ぽつんと一軒家で自給自足している者を、誰が生き方に点数をつけられよう。なんでも鑑定する鑑定団にでさえ、数値化させてはいけないものだ。

 人はそれぞれが100パーセントでできている。

 誰だ? 最初に上下の差をつけたやつは。ずいぶんと奢ったことをしてくれたものだとつくづく思う。戦争にしてもハラスメントにしても、自分よりランクが下との烙印を勝手に押したやつこそが元凶なのにね。

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