前日の記憶を完璧にたどれない。一昨日のこととなるとなおさらだ。遠い過去のディズニーランドは覚えているのに、楔のない日常は排泄されて下水に流されていく。その時々で真剣だったはずなのに、「賢く安く美味く調理する」の意識だけを残して、何を作ったのかの具体性をそぎ落としていく。記憶はケバブじゃないっていうのに。
大きなライフ・イベントだけが生きる糧ではないことくらいわかっているのに、記憶は通電の衝撃を与えないと残らないようにできている。
「3・11の前日、何をしていたか覚えてる?」と、ある主人公がめくるページの擦れる音に混じって問いかけてきた。
東日本大震災。あの、突然に襲ってきた大きな揺れは、通電の衝撃だった。起床と同じように、目覚め直後から記憶が始まっている。ところが、その打ち込まれた楔の前のことは覚えていない。前日の記憶ばかりではなく、打たれた楔までの道のりさえ見えなくなっている。まさに睡眠に囲われた闇の中にいた。そして記憶はいきなり出現する。ディズニーランドの記憶が園内から始まるのと同じだ。
人が平等であるのと同じく時間も平等に割り振られているはずなのに、記憶はそこに優劣をつけたがっている。人は平等だと期待値を込め説得でねじ伏せるのと同じように、都合の悪い真実は巧みにベールに覆われていく。
おそらくは、脳という記憶媒体の容量を超えてクラッシュしないための安全弁として。
それでも、今年こそは夏から秋へ移りゆく境目を覚えておきたいと思う。あまり使ってこなかった頭脳だから、余剰はたっぷりある。
で、何を残すかだ。
何年もご無沙汰してるお月見?
それも、いいね。