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老兵は語らず。

 秋葉原を歩く人にもはや「電気街」は通用しない。オタクの聖地は、電球や抵抗、基盤など電気部品を主役の座から引き摺り下ろした。
 老兵は死なず、ただ過去の思い出の札を懐から取り出し、一枚一枚を繰り返し見入って感慨に耽ることしかできあない。配られる札に、メイド喫茶やアイドル関連グッズの図柄はない。今となっては幻となった見慣れた電気街の風景ばかりだ。
 それは、限られた札の組み合わせで一喜一憂に溺れる花札、遊んでいるつもりがツボにハマり、そして運命に弄ばれていく。

 歓楽街のネオンに寄る客は川の水だ。上流から湧き出した凄烈な若者は片側通行の道すがら、煌々と光を放つ甘い水に集う。だがそれもいっときの盛りの勢いに乗った気の迷い。ネオンの貯金箱にチャリンチャリンと落とすだけ落としたのちに若さを使い果たし、かくれんぼじゃあるまいに「もういいよ」とその身を引いていく。かつて甘い水に誘われ囚われた蛍は、河口から海に流れ着き、とうに藻屑と化している。

 電気街を電気街と言わしめた面々は消え失せたわけではなく、ほとんど風前の灯火状態に陥ってしまったけれども、電気自体が廃れたわけじゃない。電気はこれから。電気自動車がその頭角を今まさに現そうとする時代の角に差し掛かったところである。
 ただし、いつものことながら奥ゆかしくも遅咲きの日本は、性懲りも無く世界に先を越され、ガラパゴスの殻を破るのに手こずっている。化石燃料はなくならないと、現実に目を瞑り、自己解釈で願望を念仏のように唱えるばかりで、自己安堵の暗示に自らの身を潜めている。
 大戦であれだけ痛い目を見ても、水蒸気爆発で重度の火傷を負っても、ちんまりまとまった自分ごと以外は相も変わらず全部他人ごと。対岸の火事は傍観していればいつか誰かが鎮火するものだと、今でも頑な殻の中に閉じこもったきり、たったひとつしかないのにそのひとつの真実に目を向けない。この国の人たちの喉元は、きっと打たれ強く、火傷をしないよう、遺伝的に丈夫にできているんだね。せめて喉元過ぎる時くらい熱さで悲鳴をあげたなら、少しは教訓めいたものを心に刻むことができただろうに。

 それでも放っておいたらいずれ熱湯は喉を焼いてしまう。喉がヒリヒリしたならば、それは立派な火傷です。すでに少数派はそのことに薄々勘づいているのでしょう? 
 だけど、おいそれと認めるわけにはいかないという事情もある。同調圧力に逆らうわけにはいかないからね。世界が地動説に染まっていっても、お上が天こそが動いていると声をあげれば、国民は「そうだ! そうとおり」のシュプレヒコール、この国の団結力といったら世界が舌を巻く。その実、眉はしかめられているのだけれども。
 国をあげて天動説で押し切ってしまうものだから、異端になれば村八分。「王様、お上さま、あなたは豪奢な服など着けておらず、まるで裸のまんまでごぜえます」は、腹でわかっていても顔に出せず。真実を認めてしまえば、お上のプライドの鼻に傷がつく。
 すでに過去のものとなった『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』の夢を現実に覆い被せて、「明日はきっと良くなる、耐えていれば元に戻る」と今でも盲目的に、だからか目を閉じて祈り続けている。

 秋葉原の栄華は、廃れたわけではない。ただ主役が代わっただけなのだ。だからといって、終止符が打たれた栄光を、破れた恋と一緒にゴミ箱に捨ててしまえ、とは言わない。トロフィーは、テレビの上にでも飾っておけばいい。薄型液晶テレビの上だと不安定で乗せようがないと言うのなら、いっそテレビの裏側に隠しておけばいい。見せてひけらかす意味のない虚勢より、よっぽど価値のある決断だ。

 時代の流れについていけなくなった老兵は、ピントがずれたからといって死んでしまうわけにもいかない。何せ100年生きなければならない時代に生きてしまっているわけだから。年金を払い続ける政府の身になれば甚だ迷惑な話であることは理解している。だけどあっちの主張を立てるとこっちの暮らしが成り立たなくなってしまう。

 老兵は死なず、ただ表舞台から消えるのみ。

 で、向かうは裏舞台。
 そこで何をするかなんだけど、新兵に真似されると困るから、今はまだ語れない。

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