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『芸は身を助ける』の考究。

 経験は森林の奥地に佇む湖の底に積もる澱のようなものだ。撹拌すれば舞い上がり、心を乱す。しばらくすれば沈殿し、あてのない約束をするみたいにして儚い透明度を哀れに見守る。澄んでいるだけではない。濁っているだけでもない。共に在り、共に拒み合う。

『芸は身を助ける』ほど現代は稼ぐのに安易ではなくなった。大道芸人は路上パフォーマンスするのにも申請を要しかしこまって▼▼▼▼▼▼しまったし、玉簾たますだれを披露する宴会に誘えばパワハラだと拒否られる。芸は身を助けるどころか、身を削られるか滅ぼす種になってしまったようにさえ思われる。

 経験こそが身を助ける。だけど経験はこなせばいいというものではない。経験は積み上げるものと教えられてきたではないか。先人は要点を、表面をなでるくらいのピアノタッチでそよがせただけだ。気に留められれば幸い、留めざるは火傷をするまでおあずけ。間に合わず焼死してしまうのではいただけないが、それもまた運命ならば致し方のないことなのだろう。

 経験は、身を助ける芸の変異を見逃さなかった。彼は、世渡りの芸を自らの経験から編み出した。営業カラオケで魅了するために歌を歌うことを鍛錬したのではない。「パズドラは話題作りに役立つ」といったおバカな噂を信じゲームにハマったわけでもない。
 人は、ドジに寛容になることを経験から学び、芸として昇華させた。ドジは、大事なところでしくじるものは論外だった。害のないドジでなければならなかった。ジャブで様子をうかがい、相手が囮りに気を逸らした隙にキメのストレートを打ち込む。そのための囮りドジ。

 鈍臭さの演出で、結婚もしていないのに「うちの嫁さんがね」と切り出し場を和ませるようなまねもした。仕事に支障をきたさない側道で見え透いたドジを踏み、おどけてみせ笑いを取るようなこともした。なんだってやった。ノックダウンを奪い取る強烈なストレートを打ち込むための下準備なら、手段を選ばなかった。

 現代社会の組織は、意識の二重構造が入り乱れて組み上がっている。上司の多くは自分の手足として動く、いわゆる『使いやすい部下』を選ぶ傾向にあるし、経営陣は対立してでも切磋琢磨しあう管理職をそろえたいと躍起になっている。安定は時間の経過軸上では下降でしかない。自己増殖が可能な推進力を生み出し続けなければならない。

 かつて「明日になれば暮らしはもっとよくなる」と歯を食いしばって働いていた大人たちは、明日頑張り抜くための心の栄養補給剤として、映画や演劇、大道芸などに惜しみない小銭と拍手を送った。今や映画館はシネコンで、充実はしたものの物理的に遠くなり、演芸は演出が貧相だと高慢にも勘違いが蔓延し、路上パフォーマンスは買い手市場の熾烈な戦国時代の様相を呈している。
 現代の芸はもはや過去の遺跡をそのままあてはめようと思っても成立しない。身を立てるには、懐刀を忍ばせたできるピエロ▼▼▼▼▼▼になるしかなかった。

 彼は上司に可愛がられ、経営陣の目にも止まった。彼の極めた芸は、現代社会に置いたその身を助けた。

【猫の歌芸。これはこれでその身を助ける。】


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