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お嬢さん、あなたじゃなくって。

 年明けすぐの週末、大先輩のお宅に電話をかけた。どうしてもこの土日の間に対処しておかなければならない要件が発生したからだ。でなければ、週明け(もう明日に迫っている)すぐに稼働させられない。
 ただでさえ納期が遅れているというのに、稟議の押印ひとつのことで平日の有効に使えるはずの時間を無駄にはできないと判断してのことだった。

「もしもし」
『はい』
 お嬢さんが電話に出た。そういえば成人式を控えた娘さんがいるときいたことがある。

「××と申しますが、○○さん、ご在宅でしょうか」

 仕事の電話である。しかも大先輩に繋いでもらう電話である。親戚の従兄弟を呼び出すのとは違う。さすがに苗字以外では呼べない。間違ってもファーストネームを口にはできない。
 こちらとしては早く要件を済ませ、残された休日の時間を少しでも有意義に使いたかった。なのに電話の向こうはどうしてだかぐずっている。動きが鈍いのだ。

 なぜ?
 早くお父さんに代わってよ。急いた気持ちが心の叫びとなって、除夜の鐘の如く頭蓋骨の内側で鳴り響いている。

 ふと、妙な気持ちになる。娘さんと交わしたたったふた言のやりとりのあと、二者の間に流れる空気が変わったのだ。見まごうことなく腑抜けたようなにやついた緩い手ざわりが広がっていく。
 無駄なく真意を伝え、無理なく事を押し進めなければならなかった。事務的でかまわない。休日の電話なのだもの、手間も時間も短く切り上げたかった。

 なのに娘さんときたら。

『わ た し』と返してきた。

 そのハートマークを纏わせた言い方に、期待を膨らませてしまったことが手に取るほどに伝わってきた。

 え? あなたじゃない、と僕は焦ることになる。
 これはまるで愛の告白をひかえた無垢な男と告白を待つ女の図ではないか。彼女は突然かかってきた電話を、恋の引き金に置き換えた。

 だけど、現実は違う。間違っている。そんなのじゃない。僕にそんな気はもうとうないし、それに僕はあなたに一度も会ったことさえない。話すのもこれが初めてじゃないか。

 僕がいま告白すべきは君への愛じゃなく仕事の段取りで、しかも娘さん、あなたにではなくあなたのお父さんのほうに、なのだ。

「○○さんをお願いしたいのですが」
 腹に力を入れ、臆することなく、それでも感情に任せた気負いは微塵も表さず、僕はもういちど娘さんに伝えた。

 空気の波がそこはかとなく向きをかえ、気持ちの波長がまたその色味を変えた。
 彼女から冷や汗が流れるのが受話器を通じて伝わってきた。取り繕うとしたものの、立て直すにはあまりに時間と経験が少なくって、不思議な後味を残しながら娘さんは電話をお父さんに繋いでくれたのだった。

 要件は伝わり、業務は滞りなく進められることになった。

『わ た し』
 あの色香に目覚めた言い種だけがその場に留まり尾を引いた。
 
 悪いことをしちゃったかな、と本意ではない後悔めいた感情が車窓を抜ける景色のように通り過ぎていったけど、一方でどうにもできないことにくよくよすることほど馬鹿げたことはないと、妙に冷静に傍観している自分もいた。

 娘さんはきっと今ごろ赤面を塞ぐように、あったら入りたい穴を見つけその底でうずくまっているのだろうことを思った。鉄壁の蓋をして外界との交信を絶ち、ほとぼりが冷めるまで、そこでじっと耐えようとしていることを。

【伝言ゲームになっちゃった。こんなことなら、最初からケータイ鳴らしときゃよかった。】

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