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人は途上にあり。

「この赤い果物はアポーと呼ぶことにしよう」
 まだ「そうだね」という同意の表現さえ確立されていなかったころ、人類にとって通じ合える対話の素の創造が急務だった。言葉によるコミュニケーションの始まりである。
「ではこの四角いのをフォンと呼ぶことにしよう」
 微妙な形違いの四角いものをそれぞれが手にしていた。「私。それは、アイ(I)」。人称代名詞のバリエーションが広がるにはまだ時間を要した。現代の発展した言語でいう「my」を、じれったくも歯痒く仕方なく男はとりあえず「I」と表現したのだった。それ以外の言い方ができなかった。発展途上時に起こりがちな、成長時の骨の軋みみたいなぎこちなさ。意識が先行して意味の具現化が追いつかないことなんて過渡期にはよく見られるジレンマだ。
 仕方がなかった。
 だけど、意味はなんとなく通じる。その時はそれでよかった。いきなりサーフボードに乗れるわけもなく、最初はパドリングから始める、沖に出る前に波が来たら頭を波に突っ込んでかわす、そうした入門編から着手するのは、上達の常套手段である。
 言葉の黎明期、初歩的な紆余曲折を経て、アイフォンを共通化した。
 ちなみにこのアイフォン、名残が現代社会で広く使われている。

 話は、驕るな、を訴求している。アイフォンという言葉を共通化した最初のステップで人類はひとつ問題をクリアしたと思い込んでしまった。共通化しなければならない言語化に忙しく、ほかに手が回らなかったこともある。だがここで、発展すべきアイフォンの進化を止めてしまうことになった。あれから数10世紀を経て、言語化の課題が一巡したと一息ついたことで、見過ごしていたものを検証する時間が生まれた。
「アイフォン、これでよかったか?」
 疑問は発展の父である。時を経たアイフォンが、ある時を境に発展を加速し始めたのはこのためである。
 そして今なお、毎年のように進化し続けている。
「これでいのか?」
 投げかけは歩みを止めない進化の礎である。

 驕ってはいけない。ここまで高みに持っていくことができたんだもの、自分を褒めてあげよう、そんなふうに甘やかしてしまうと、進歩は歩みを止めてしまう。気を抜いてはいけない。人類は泳ぎを止めると死んでしまう知の回遊魚。

 まだまだだね。我々はまだ、発展の途上にある。

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