「写真で誰かを幸せにしたい」という言葉に共感ができない。
なぜなら、自分のなかでなにが「幸せ」かわからないからだ。
「幸せ」について考えたとき、「幸せだなぁ」と思うより先に、なにものかに肩を掴まれるように「こわい」という気持ちに支配されることがある。
友達と会っているときとか、どこかに出かけているとき、楽しいはずなのに、ふと頭の中に、この楽しい時間も、この関係すらいつか終わってしまうのかもしれないとか、なんだかそういう一抹の不安がよぎってしまう。
もちろん全部が全部そうではないんだけれど、なかなか人に心を開けない自分は、楽しいなかのふとした瞬間に、終わりがくる虚しさとか切なさとか、そういうものを見つけてしまうことが多い。
だからそういう「幸せ」がよくわかっていないわたしが、「自分の写真を見て幸せになってほしい」なんて口が裂けても言えないのである。
そもそも、写真ってクリエイティブな表現手法のなかでちょっと変わった存在だと思っていて、その理由は人を傷つける可能性が多く含まれているからだ。
わたしの経験談になるけれども、例えば。
海外でスナップ写真を撮っていたら、屋台のおばちゃんにものすごくいやな顔をされて、「撮るな!」と叫ばれた。その瞬間、あのおばちゃんはすごく不愉快だったと思う。
現場写真で、状況を残そうとお客さんを含めた写真を撮ったら、「写さないでほしい」と言われ、クレームになったり。自分の詰めの甘さが原因なのは痛いほどわかっている。その人を嫌な思いにさせた。もう思い出したくない、今すぐ忘れてしまいたいくらい辛い思い出だ。
カメラを向けると、母親は「老けた顔を見たくないから、わたしは撮らなくていいよ」と言ったし、過去好きになった人はほとんど全員、写真に撮られるのを嫌がった。わたしは好きな人との時間をずっと残しておきたいと思ってカメラを向けるけれど、大抵顔を背けられてしまう。最初は「やめろよー」くらいだったけれど、それでもカメラを向けていると、「本当にやめろよ」と目がつりあがる。その瞬間の顔をずっと覚えている。虚しくなる。悲しくなる。色々な写真集を見て、プライベートな空気感で撮らせてくれる人がいるのって、恵まれてるよなぁとか卑屈に思ったりもするが、こういうのは信頼関係なのだ。信頼関係ができていない相手にカメラを向けると、傷つけるしいやな思いをさせる。
そういうのが続いたりして、実は、プライベートでの写真を残すことを最小限にとどめるようになった。
カメラマンの使命として写真を残すより、山本春花の人生を全うして、その瞬間瞬間を楽しみたいと思ったから。
皮肉なもので、そういうふうにしてから、こないだヴェニスに旅に出たときのスナップではみんな笑顔を向けてくれたし、母親はカメラを向けても嫌がらなくなったし、「撮って」といってくれる人が恋人になったりもした。人を傷つけない写真もちゃんと撮れるんだな、と少し自信を持てた。
同じように「幸せ」に対しても、少し考え方が変わった。積極的に「幸せ」を探そう、「幸せ」を感じられる自分になろう、と思えるようになった。楽しいときはただ楽しい、でいいじゃないか。いつか終わることを気にして切なくなる理由はない。考えすぎるのはやめて、もっと頭を空っぽにしよう。シンプルになろう。少しずつだけど、そう思えるようになってきた。そう思えるようになってきただけで、後ろめたさみたいなのが完全に抜けきってるわけではまだないのだけれど、それでも自分には大きな一歩に思える。そのきっかけも、「写真を撮らない」ということを選択できるようになったからだ。瞬間瞬間をただ楽しみたいと意識できるようになったから。
わたしの写真を見て幸せになってほしい、とはまだ全然言えないけれど、それでも、写真を見た人が楽しい気分になったりとか、元気になったりとか、嬉しくなったりとか。もう一歩先に踏み出せる、色んな気持ちを感じてくれたら嬉しいと思う。
だから写真集を作ろうと思った。最初は自己満足のためにやっていた「乙女グラフィー」というシリーズだけど、今は見ている人になにかしら伝えられたらいいな、と思っている。
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