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【映画】『バーニング 劇場版』はバッドエンドなのか?【ネタバレ考察】

『バーニング 劇場版』が今年の暫定ベストを更新するとんでもない傑作だった。

この映画を観て「長くて陰鬱で退屈」と思考停止してしまうのはあまりにも悲しいので、自分が思っていたより何歩も奥へ踏み込んだ作品だと気づいていった過程を記録したい。

原作からの改変

村上春樹の原作『納屋を焼く』を予習で読んだときは、「こんな数十ページの短編をどう2時間半の映画にするの?」と思っていたけど、予想外に原作に忠実でしかもその先へと踏み込んだ映画だと感じた。

原作と比べた時の特に大きな改変は
登場人物の心情の具現化
ヘミがアフリカから帰国後に「消えて無くなりたくなった」と言って泣き出したりとか、パントマイム中にも泣き出す。ジョンスも彼女への愛を口に出している。原作にあった二人の年齢差がないという設定からか、二人の人柄や関係性がかなり異なる。宇多丸さん曰く、本作のジョンスはフォークナーの作品により近い「持たざる者」。
犯人へと誘導する明確な伏線と、直接的な対峙
原作ラストでは「皆まで言うな」という感じで疑惑のまま終わるのに、映画におけるジョンスは"真相"らしきものに気づき、行動に移る。犯人へと誘導する伏線(腕時計、猫)や疑惑(あくび、ダム)も明確に提示している。つまり原作のその先まで踏み込もうとしている。
韓国における現代劇への変更と、朝鮮やアメリカの政治状況の反映
その他にも猫、ジョンスの両親などのオリジナル要素や、学芸会など削られた要素もあり。
の3点だと思う。

作品のテーマ

それでもこれらはあくまで"再解釈"であって、基本的に作品から受け取った本質は原作と同じ「納屋(ビニールハウス)という言語や枠に囚われる危険性」だと自分は思っている。
これはパントマイムも、井戸も、猫も共通していて、「存在しないということを忘れる」という印象的な台詞が原作にも映画にもあるけど、目に見える形として存在するか、心の中にしかない存在なのか、という差はそれ程大きくないのに、小説家のジョンスは言葉に囚われ続けている。
だから、ビニールハウスが燃えてないかどうか、井戸があったかどうか、猫がボイルなのか、いちいち確認してしまう。

きっとベンやヘミにとってはそんな事はどうでも良くて、言葉が一般的に指す対象など気にせず、物事をありのままに楽しんでいる。例えばヘミは、冒頭のバイト時代から「身体を使って働きたい」って述べていたしグレートハンガーの踊りもそうであった。ベンにとっての「ビニールハウス」も極端で危険な解釈ではあるけど感性的・抽象的な解釈。つまり、原作にある「物事に判断を下す以前にその物事をあるがままに楽しめる」という作家に必要な能力を2人は持っていて、それゆえにヘミはベンに惹かれたのかもしれない。
しかし、ジョンスにはこれが欠けていた。小説家ならではのジレンマなのか皮肉なことに、言葉に囚われた頭デッカチの人間で、手は動かせない何も生み出せない人間になってしまっていた。

だから終盤でも、彼女の失踪の原因としては状況証拠しかない状態なのに、決めつけで殺しに移る。これはきっと怒りを抑えられない父親からの影響も大きい。
原作を読んだ時点では、ベン(彼)は「将来有望な"納屋"(彼女)を、"古い"という自分の勝手な判断を押し付けて焼いてしまう悪人」という一面的な結末に見えたけど、本作では彼女自身が絶望の片鱗を見せていた以上、この殺しは完全なバッドエンドではなく、カップルにとってはwin-winとも言いかねないと感じた。(ヘミの次の彼女のリップも死化粧の印象があると聞いて納得した)
それを自分の愛を暴走させ、話を膨らませて"復讐"を行なってしまったジョンスこそが悪人とも言えるのではないかと感じた。

結末の解釈

しかし、何も書けなかった真面目な凡人から脱却して作家へと進化したという結末とも捉えられる。宇多丸さんの解釈のように

執筆以降の描写はジョンスの想像である

という説が正しいとすると、彼は自己の欠点を客観的に自覚して文学に昇華できたということになるため、それは大きな救い・成長でありハッピーエンドに近い。金庫のナイフと対になるトイレの棚の化粧箱は妬みの対象であり、「敵の見えない時代」に八つ当たりでしかないことを自覚しつつ行動していて、「ヘミはいないの?」と尋ねていることからもベンは無実と考えられる。希望がある分、自分もこの説を支持したい。

決してフィクションではない

だとすると、この映画を観て「ジョンスかわいそう…ベン最悪だ…」と思ってしまうのは監督の思うツボで、「ビニールハウスの周りをランニングしている」状態なんだろう。もう二つ先の悪にまで気付けるかどうかが本質なんじゃないかと感じた。自分は一つ先までしか自力では行けなかった。
それは現代にとっても非常に重要で、トランプのメキシコの壁や、NZの発砲事件も根本は同じ問題。本来は意味のない境界や概念に囚われるから争いや不幸が生まれる。これが本作が国際的に評価された一因だと感じる。
またジョンスの成長は、評論家と作家の密接さを示すものでもあり、客観と主観を両立しないと新しいものは作れない、という主張かもしれない。センス=知識で、新しいものを作る人は他者や歴史をよく勉強しているという例はよく見かける。

かといってベンが正解ではない。実際にはベンの感性とジョンスの理性を両立しないといけないし、ヘミがどんなに苦しんでいても、勝手に命を奪ってしまうのは自己中な「判断」でしかない。
そう思うと、逆光のパントマイムが最高のシーンだと感じたのは、辛さを抱えつつも自分をさらけ出して別の表現に昇華する儚さに感じた美だろう。ジョンスと同じ過程を彼女も辿っていて、それを他人が奪う権利なんてない。もちろんこのシーンは映像でしかできない事なのでその凄さもあったし、まさに「死刑台のエレベーター」。

観終わってからが始まり

原作ではたどり着けなかったこのような奥まで到達出来たのは、明らかに『バーニング劇場版』による再解釈のおかげで、こういう非言語的な描写や説明的でない行間にこそ、映画の意味があると思っているので、自分はこの作品が大好きで、最近だと『サスペリア』と印象が近い。
原作でも伝えられているけど自分の読解力が足りなかっただけなのか、あるいは監督が映画化に向けて原作とは異なる再解釈を行ったのか、そもそも自分が映画から受け取ったメッセージが的外れの可能性するあるけど、どれにしてもこれだけ深い映画は最高。「観終わってからが始まり」のタイプの映画。

そりゃヘミとジョンスに幸せに暮らして欲しかったけど、ジョンスが幸せになるには決定的足りない「想像力」があったんだと思う。
井戸があるかより、彼女が井戸によって何を伝えたいのか(=心の井戸に沈んだのではないか?とか)の方が大事だし、もしもビニールハウスが指す対象を想像できたら、彼女を救うことができた。大麻に対する意識の低さにもそれが伺えるし、そもそも幼馴染ではない可能性すらある。「送ってもらえよ」ではなく素直に「乗ってけよ」と言えたらこうならなかったかもしれない。
自分がジョンス型の理性人間だからこそ、他人事は思えなくてこの辺りはマジで刺さった。小説かと思ったら父親の懇願書を書いていた場面とか境遇を象徴しすぎていて悲しくなった。

女性のための国はない

とか

中国人は金には雑で女には優しい

という会話にもあったけど、ベンは結局女より金、ヘミよりポルシェという男なので、ジョンスとは逆のベクトルの悪を持っている。「無意味なものを煙のように消した」とベンは思っているだろうけど、少なくともジョンスにとっては違った。
上記では型にとらわれない人として書いたけど、同時に矛盾も抱えていて、「涙が出ないので悲しみは感じない」という形式的で実利的な思考もあったし、車中の通話で最後に「じゃあねお母さん」とか言ってたけどあれは恐らく別の若い女だろうな…。カンナムで車のガラスを叩かれるシーンは鳥肌が立ったし、料理時の「お供物」もこのような"有無を言わせないエゴ"のメタファーだろうと思う。
原作もそうだけど、それにつられてしまうヘミの「芯のなさ」にも非があるとは思っていて、ジョンスの母と同じような選択ミスと価値観の甘さが、不幸を招いたとも感じる。ジョンスを信じていたのならそれを行動に移して欲しかった、無言通話の正体を思案してみても相互の問題なのはたしかだけど、少なくとも別れ際の牛がジョンスを見る目は信頼と感謝だったと思う。

村上春樹の作家性

「村上春樹の文学は、そのままでもいいんだよと言ってくれる。村上龍の文学はそのままでいいワケねぇだろと胸ぐら掴んでくる」というGO三浦さんのツイートを読んでなるほどね〜と思っていたけど、この作品は割と例外的に両方を兼ね備えている感じがある。

初めはトントン拍子だったけど、最後は自分にとって大きな反省や教訓を与えられてしまった。村上春樹も自身の作品の中では例外的に陰鬱すぎて長編に膨らまなかったというような事は言っていた。『アンダーグラウンド』以降は踏み込むことが増えたという評論も聞いた。

韓国映画の質の高さ

韓国に作られてしまったことが悔しいとも思うけど、日本にこれを作れと言われたら難しい気がする。かなり具体性は高いといえど『万引き家族』とテーマは近いと思うけど、『コクソン』『タクシー運転手』等…質の高いノワールを多く送り出せるのは業界の仕組みや観客の姿勢からして違う気がする。
密度はほぼそのままでかなり説明は抑えられている分、情報提示の洪水だった『スパイダーバース』とは対照的だけど自分が観たいのはこっちだし、人と違う事を発見して考えないと自分が観る意味を見出せないから、最近はミステリーよりノワールを求めるようになっているのかも。

チョンジョンソさん(同い年)の一重と身のこなし好き…とか、フォークナーや村上春樹も色々読んでみようとか、イチャンドン作品は絶対好きなので見漁ろうだとか、マッチョかっこいいから筋トレしよとか、寡作でこれだけ評価されるのかっこいいとか、テレビ版観てみようとか、部屋の光の反射も伏線かとか、色々細かい刺激もあって、もう一回観たい。

最近映画観るの楽しすぎるけど、これは作品の面白さだけでなく自分の解像度が上がってきているのも原因としてある気がする。でもそこで終わらずに自分の作品に昇華するのが大事だと改めてイチャンドンやジョンスから教わった。

(訂正や反論などあればなんでも教えてください!)


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