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『銀河鉄道の夜』を読んだら、主人公が実は猫で、ぼくだった話。

みんなで一斉に読書感想文を書くお祭り「#キナリ読書フェス」。課題図書の5冊はどれも面白そうだったけど、自分が一番ビビっときたのは『銀河鉄道の夜』だった。その理由は大きく3つ。

① 誰もが名前を知っている名作で、まだ読めていない自分にコンプレックスがあったから。(飲み会で読んだふりするのもう嫌だ…)

② 最近、友人のデザイナーから、1985年版のアニメ映画『銀河鉄道の夜』を勧められて気になっていたので、先に原作を読んで予習したかった。

③ 岸田さんが「読書感想文講座」で引用されていた「宮沢賢治は、人だけでなく、自然にも無機物にも感情移入ができる人だ」という言葉が刺さったから。

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その中でも特に大きな理由が、③の「自然や無機物への感情移入」だった。

後述するが、ぼく自身も生物や無機物に命があると思って生きてきたし、それをテーマに作品をいくつも制作をして修士論文まで書いた。

だから、宮沢賢治の感情移入とはどういうものだったのか、なぜぼくがそんなに興味を持ったのかを探ってみたいと思った。

(*追記:そしてなんと...キナリフェスで「優秀賞」をいただきました。岸田奈美さんから「"こんな見方もあるんやで"と楽しみ方を教えてくれる」「原稿用紙じゃできない、ネットならではの良さ」と褒めていただけたのがすごく嬉しい…。ありがとうございます!!)

宮沢賢治が描く生物や自然

宮沢賢治の作品で読んだことがあったのは、子供の頃に読んだ数冊くらいだけど、たしかに動物や自然が生き生きと描かれている印象は持っていた。

毎晩訪れる動物たちのリクエストを通して、音楽への理解を深めていく『セロ弾きのゴージュ』。山のおどろおどろしい空気に飲まれて、帰り道を見失うブルジョアを描いた『注文の多い料理店』。風の日に転校してきた男の子が、生徒たちから風の神ではないかと噂される『風の又三郎』。

どれも「アニミズム」、つまりは「生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂が宿っているという考え方」を感じる物語だ。最近の作品で例えるなら、『トイ・ストーリー』だって、オモチャという無機物に命を宿らせている物語だ。

そして、今回の課題図書『銀河鉄道の夜』にも、アニミズムの考え方は強く反映されていた。

『銀河鉄道の夜』におけるアニミズム

いまさら自分が説明するまでもないと思うが、自分のように読んだふりをしている人もいると思うので、『銀河鉄道の夜』のあらすじをまとめておくと…

病気の母と暮らす孤独な少年ジョバンニと、裕福で人気者の優等生カムパネルラ。ある日の放課後に同級生のいじめに耐えきれなくなったジョバンニは、黒い丘へ行って天の川を眺める。気がつけば銀河鉄道の汽車の中にいて、カルパネムラとともに銀河を旅することに…。

という物語だ。まず自分がこの作品を読んでいて驚いたのは、母親のために牛乳を取りに行くジョバンニの視点で描かれた、影の描写である。

坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越こす。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。

身体から独立して動く、意志を持った影は、現代の映像やアートでも表現されていることが多いけど、当時の宮沢賢治はすでにその感覚を持っていたんだなぁと感動した。しかも、自身を「機関車」、影法師を「コムパス」と表現するその文才、やばすぎないか…?

例えば以下は、ぼくの友達が東大の制作展に展示していた、影が勝手に動き出す作品『自立する影』。実際に体験してみると、急に体の自由が奪われたような感覚に陥って面白かった。

ぼくの大好きな動画クリエイターも、影と協力して脱走する囚人を描いていた。

そして、作品の大きなテーマの一つである”自己犠牲”を体現した、「さそりの火」のシーンでも、宮沢賢治の生物に対する感性と文才が爆発している。これは、いたちに食べられそうになったさそりが、逃げているうちに井戸に落ちて祈っている時の懺悔の言葉である。

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

さそりの死に際にここまで感情移入できる人は他にいないと思う。それに、人ではない生物の童話として描かれるからこそ伝わってくるテーマがあると感じた。

そんな宮沢賢治が描く主人公が苦しんでいるからかいの言葉が「ジョバンニ、お父さんから、らっこの上着が来るよ」であるのも納得がいく。自然や生物を愛するジョバンニにとって、父親がらっこを密猟して投獄されているとからかわれるのはさぞかし辛いことだったと思う。

人も動物も自然も等しく愛する

先にも述べたように、ぼく自身もアニミズムをテーマに、アートの制作や研究をしてきた。もっと正確にいうと、「アニマシー 」(人工物に感じる生物らしさ)がテーマだ。

道具って人に使われていないときは暇だったりするのかな?」という疑問から、「普段使っている日用品の見た目はそのままで、動きだけで生き物らしく感じさせられたりしないだろうか!?」というプロジェクトを修士で始めて、『道具の暇』について考えてもらう作品の制作・展示を行った。

積ん読に怒る本」を作ってみたら、意外と大きな反響をもらったり…

音楽や人の動きに合わせて踊る傘」を作って、3000人の来場者に向けて展示させてもらったり…

そんな研究を通して、道具が動いたり人に反応することで、生き物らしく親しみやすく感じられることがわかった。ぼくは、コンビニの前に置かれた傘が、コンビニの前で待たされている犬と同じように、愛着を持って扱われる世界になってほしいと思っている。

そして、『銀河鉄道の夜』を読んでいて、宮沢賢治の考え方とぼくの考え方はどこかでつながっているのではないかと感じて、嬉しくなった。

きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く。

という終盤のジョバンニの言葉にも表れているが、宮沢賢治は、人も動物も自然も等しく愛する人だったのだと思う。

哲学者の梅原猛の考察によれば、宮沢賢治のゴールは「人間が、天地自然の生命と、親愛関係に立つこと」だったという。

彼にとって明らかに、動物も植物も山川も人間も同じ永遠の生命をもっているはずであった。その生命の真相を語るのに、どうして、人間世界のみを語る小説という形をとる必要があるだろう。・・・・・・そこでは動物は人間と対等な意味をもっているのである。そして、そこでえがかれるのは、動物と人間が共通にもっている生命の運命である。賢治は、童話によって人を風刺して、人間社会を改良しようとしたのではない。むしろ、人間が動物をはじめとする天地自然の生命と、いかにして親愛関係に立つべきかを示したのである。
(梅原猛 『宮沢賢治研究』 筑摩書房より引用)

映画版『銀河鉄道の夜』での脚色

冒頭にも書いたように、ぼくがこの作品を選んだのには、友人の勧めも理由としてあった。デザイナーの彼と、あるコンペに向けて一緒にアイデア出しをしていたときに、最近面白かった映画の話になった。そこで勧めてくれたのがこの作品で、そのオススメの理由にすごく興味をそそられた。

『銀河鉄道の夜』の映画版ってさ、登場人物がほとんど猫なんだよ

「え、どういうこと…?それ、ほんとに面白いの…?」

猫だから表情の変化とかほとんどなくてさ、自分で感情を想像する余地があるから、すごい面白かった

それからこの映画のことがずっと気になっていたぼくは、この機会に小説に続けて鑑賞してみた。これはたしかに面白い…!!

なぜ登場人物を猫として描いたのか?

これだけの名作を映画化するとなって「じゃあ、登場人物を猫で描こう!」って普通思わないでしょ…。なんでそんなに挑戦的なことを思いついて、しかも実現できたんだろうか、とっても気になって調べてみた。

すると、監督が、WOWOWのインタビューで、面白い理由を語っている。

ジョバンニなど無国籍な名前で世界観をつくり、内面的な心の問題をテーマにしている作家が宮沢賢治です。読者の解釈を妨げないよう具体的な描写は避けて、象徴性を大事にしている。日常世界をシンボリックに置きかえ、解釈は受け手に“どうぞ”とゆだねているわけですね。でもこれを人間で映像化すると、ナマっぽくなり過ぎると思いました。そんな時に、ますむらひろしさんが描いた『銀河鉄道の夜』の絵本を知り、“猫ならあの透明感が出せるぞ”と思ったわけです
(WOWOW『杉井ギサブロー監督インタビュー』より引用)

まさに「観客に想像の余地を与える」ために、猫として描いたというのだ。そして実は、漫画化の時点でこの脚色がされていたというが、漫画原作のますむらひろしもインタビューにおいて、こう語っている。

なんで自分が猫でマンガを描き始めたかを言えば、もともとは宮沢賢治の影響なんです。生きとし生けるものに命があるわけだから、人より猫が劣っているとか、そういうものの考え方自体がおかしいわけで。あらゆる生き物をモデルにして、あの人は書いているわけですからね。だから、人が猫になろうが、猫が人になろうが、生命体としての自在さはもともとあるわけです。
(『宮沢賢治のこと ますむらひろしインタビュー』より引用)

宮沢賢治は、人間と自然、現実と夢、生と死など、世界を分断して捉える作家ではなかったのだろう。実際、原作の文章の中でも登場人物自身の容貌に関する描写はかなり少ない。

『銀河鉄道の夜』は一人の少年の物語ではなく、誰が読んでも自分を当てはめて共感できる「余白」がある物語なのだ。そう考えると、登場人物を猫として描いていることにも納得がいくし、自分もまんまと「これはぼくの物語だ」と思いながら小説や映画を楽しんだのだった。

からかってくる同級生から逃げ出したジョバンニが銀河鉄道と出会ったように、現実では解決することが難しい問題のヒントを、物語が与えてくれるという経験はぼく自身にも多い。そして宮沢賢治にとっても童話がそのような役割を果たしていたことがうかがえる。谷川徹三による解説にもあるように、それは単なる「現実逃避」ではなく、「現実を生き抜くための術」であるように思う。

生活の環境もまた童話の制作に適合していたであろう。大都会の唯中で、親しい友人もなく、筆耕や校正のような無味乾燥な仕事で貧しい生活を営む者にとって、自由な空想の世界に人を遊ばせる童話の制作ほど心をうるおし楽しませるのもはないからである。ましてそこにはひたむきな信仰の普段の鼓舞がある。旺盛な創作活動のそこに生まれるのに不思議はない。
(『銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫)』より引用)

『銀河鉄道の夜』の主人公はぼくだった

本を読んでいる時から、ぼくはなんとなく主人公のジョバンニには自分を重ねて読んでいた。

ぼくは生活に支障をきたすレベルの不注意型ADHDで、病的に忘れ物をするし、コミュ障で人が多い飲み会では壁の花になるし、良かれと思ってやった親切が裏目に出て怒られてしまう。

でもジョバンニをみていると自分と重なることばかりだった。狭くて深い交友関係、誰かの力になりたくて奔走、華やかな街の中でこそ感じる孤独、気がつくと行動の目的を忘れてしまう注意欠陥、空想による解決…。ジョバンニの寂しさは、ぼくの寂しさだった。

そんなぼくと同じ悩みを抱えるジョバンニが、カムパネルラの消えた銀河鉄道で

さあもうきっと僕は僕のために、僕のおっかさんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ。

と宣言できるまでに、強くなっていく過程には、自分自身の人生観も変わるような強い衝撃と感動があった。

そんな余韻を抱えながら、家族と一緒に映画版を観ていたら、やっぱり「ジョバンニはあなたにそっくりだ」と言われて安心した。キョトンとしているつもりはないのに一人だけそう見えてしまったり、カムパネルラを見つけた途端に感情が豊かになったり、鳥捕りの荷物運びを手伝おうというところまで気が回らなかったり、お母さんのミルクを取りに行くという一番の目的を忘れてしまったり…。

でもぼくにはわかる。ジョバンニが目の前のことを大切にするのに一生懸命であることが。

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みんなのほんたうのさいはい

読書や映画鑑賞という体験は、非常に個人的な時間で、体験の間に答え合わせをすることはできないけど、読んだ後に感想を語り合ったり、言語化して文章に残すことで、誰かと共有できるものになるんだって、改めて実感した。

自分も傷つけず相手も傷つけずに、「みんな」の総合の幸せを求めていく、という当たり前のことが実はすごく難しいことだと大人になって少しだけわかってきたけど、成長した自分で同じ原点に回帰したジョバンニには、それを諦めない強さと救いがあった。

自分自身を客観視してジョバンニに重ねることで、ぼく自身も感情を自分の中にとどめておくだけではなくて、共有して誰かの力になりたいという勇気をもらえた。読書感想文も「みんなの幸福」を探す、ひとつの行為なのかもしれない。

宮沢賢治記念館を訪れた岸田さんが見つけられた

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない

という言葉にも、そんなジョバンニの信念、そして宮沢賢治の信念が詰まっていると思う。

「みんな”世界平和”や”人類全体の幸福”という目指すゴールは一緒だけど、そのゴールへの登り方が違うだけなんじゃないか?」という興味深い話を最近聞いた。

僕は仕事柄、広告のコピーを考える機会が多いが、「目指すゴール」を企業のキャッチコピーで例えるならこうだ。

マツダは「Be a driver.」と訴える。意志を持って人生の主人公になることを応援することで、運転者を幸せにしている。

タワーレコードであれば「NO MUSIC NO LIFE.」。音楽によって、気持ちや生活を豊かにすることを応援している。

ゼクシィなら「幸せが、動きだしたら」と、結婚式という"点"だけではなく、二人の幸せな暮らしという"線"に寄り添うことで、カップルを幸せにしている。

世界の幸福を願うどんなチームも個人も、「自分がどんな目的で社会に存在しているか」を考えて伝えて、自らの行動に結びつけている。

そんな風にそれぞれやり方は違えど、ぼくも自分のやり方で、「みんな」を少しだけ幸せにできたらといいな思える作品と出会えた。そしてそれは、岸田さんや友人の「おすすめ」がきっかけだったのだ。好きなものを面白く勧められる人は、周りにいる人を幸せにしている人だと思う。

だから、この読書感想文がぼくにとっても、「みんなの幸せ」を探す第一歩になったらいいと思う。

自分も、他人も、動物も、自然も、そこには境界なんてないから

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