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「道」のうえで -遠音とエンジンと消しゴム-

 遠くから聞こえるすべての音というのは、なぜか懐かしく感じる。学校のチャイム、野球の練習をする少年の掛け声、通りを走る車のクラクション、花火の音、爆竹の音、雷鳴が聞こえると、遠くで降りすさぶ豪雨の音も聞こえる気がする。仮に隣の国で戦争が起きて、銃声や爆撃音が聞こえてきても、それは血みどろの争いを想起させる前に懐かしさを与えるのだろう。遠音が発生して秒速300mで僕の元へと訪れる。その数秒の間に起こったことを音は通過して、もしくは経験して、音の発生源と共に空気を震わせてやってくる。聞こえてくる音とは別の、僕の知らない既に過ぎ去った瞬間を彼らは経験して音として表出する。
 少年が放ったボールは空気を唸らせてバットに当たった瞬間それは乾いた音となり、同時に上がった歓声は飛び回る羽虫の翅の音を絡めとり、心音と呼吸にリズムを合わせて街路樹を走り抜けるサラリーマンの上空を通過する。空を切り裂いているかのように垂直に鋭く降下する鳶の体に触れ、その軌道をわずかにずらして、ここへやってくる。

 男はベットに横になって開け放たれた窓から転がり込んでくる遠音に耳を傾けている。ここしばらく、男はなにも考えていなかった。なにも考えていないとき、男は安心した。聴こえてくる少年達の歓声は男をより、単純にした。単純で、安心で、簡単だった。
 単純で、安心で、簡単な日々を、搔き乱すことは誰にも許されなかった。いつでもその気になればこの部屋から出ることができた。黄金を貯め込むための知性も、女を呼び込むための理性も、剣を磨くための野生も男は持ちあわせていた。ただ、いまは静謐な空間に対して「机の中に忘れ去られた消しゴム」でありたいと考えていた。
 男が横になっている部屋に対して、社会を営む「道」の役割は変わることがない。体が硬くなることを避けたかった男は無機質になりすぎぬよう細心の注意を払ってベッドの上で寝がえりをうつ。遠音が転がり込むリズムを楽しむうちに、大きなエンジン音が「道」から訪れた。

 エンジンは「道」の仕様上けたたましく唸り上げることが至極とされる。

1.「道」を利用する全てのものは、目的をもって       移動しなければならない。

2.「道」は人生であり、流儀であり、真理であることを視野に入れて運用される必要がある。

3.人の往く場所は、その如何にかかわらず「道」である。

4.「道」が空いている日は良いときであり、「道」が渋滞している日は悪いときである。異論は認めない。

 悲しいかな。人は生まれたその日から「道」を進むことを余儀なくされる。立ち止まり、後戻り、する人もあるだろう。だが「道」の途上である事実は避けられない。自ずと、このけたたましいエンジンにいずれは出くわすことになるのが定めだ。
 「机の中に忘れ去られた消しゴム」でありたかった男の空間。いつでもお気軽に代替可能な日用品の気分でいたかったのに、忘れられても、なにも変わらない気分でいたかったのに、デカい声さえ出せれば「道」を支配できると思い込んでいる不粋なエンジンに、あっさりとその気分は打ち破られてしまう。

エンジン「ブゥオオオオオーンブゥオンブゥオン、ボボボボボボ、ブゥオオオオオオオオオン」

消しゴム「………… ‥…」

エンジン「ウボ、ウボ、ウボ、ウボンウボンウボン、ブゥオンブゥオンブオーーーーーーーー」

消しゴム「…」

エンジン「ボロボボボボボボボボボボボボボ」

いわゆるゲシュタルト崩壊に陥りそうになってもエンジンは知らぬ存ぜぬ

エンジン「オボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボボぼん」

 痺れを切らした消しゴムはベッドからのそのそ起き上がると、窓辺のカーテンを摘み上げ、その隙間から表を確認する。部屋に面した「道」をスポーツタイプの高級車が我が物顔で占領していた。あまりにでかく煩いその顔と赤く染まった車のボディーは映り込む全てを反射できそうなほど、ツルツルと光っている。消しゴムが声を掛けたところで「消しゴム」でありたいという気分をそのまま鏡面反射、顔面蒼白で有機物と無機物の間で遊んでいた男が、すごすごと机の中の暗闇の隅に引っ込まざるをえなくなるのは、その体を見ればわかる。
 「ボ」を「ぼ」に変えるぐらいの配慮を見せてはくれないかと、淡い期待を胸にカーテンの隙間からエンジンを見ていたが、相変わらず「ボ」のほうが興に乗るのだろう「ボボボボボボボボボ」と、そのこだわりは一貫している。 

 運転手は20代の青年のようだ。親の金で手に入れた車だろう。車なんて、興味のない人間から見れば所詮、見栄だ。良い車に乗って、良い服を着て、良い家に住んでいる人間は、絶対に隠居をしない。絶対だ。つまり、そういうこと。
 サングラスをかけてハンドルに片手を置き、パワーウィンドを開けてこちらではなくあちらを見ている青年。「道」の向こう側には豪奢な住宅とその窓から身を乗り出し手を振る若い女。どうやらエンジンはその女のために鳴らされているようで、消しゴムは、眼中になかった。

 安堵した消しゴム。ベッドにもどり彼奴等が部屋の前の「道」から去ることを大人しく待とうと思ったが、元来男としての力を備えていた消しゴムは俄然、その本能が腹の底から湧き立ち上がってくるのを感じた。再び「ボボボボボボ」が襲い掛かる。何かが中で蠢いた。いでた、昇り竜。

 男を優しく、虚しく、懐かしさで包んでいた遠音たちはもう、訪れない。エンジンのせいで。沸き立ちあがる血、せめぎ合う激情、男は力の限り大声を挙げた。
 消しゴムはぼろぼろとその身を崩していった。床のうえに男の身が降り積もる。これは消しカスではない。男はなにも消すつもりがなかった。そっとしていれば、いずれまた、立派な男として立ち上がるつもりだった。それを邪魔する不届き者。許せん。

 声は部屋全体を軋ませエンジンを取り押さえようとその勢力を拡大する。部屋を取り囲む壁を突き抜ける。空を垂直に降下していた鳶は大きくその経路が外れて、そのまま電柱に激突した。サラリーマンはその声に怯え、心拍数が急上昇し心不全で倒れた。少年たちの歓声は鳴りやみ、ホームランだと思われたボールはセンターのミットに収まった。遠くの国の血みどろの争いさえも大声によって終息を迎えた。男の声は誰かの遠音になり切れなかった。あまりに強すぎたその声は全ての音をかき消した。そして「道」を支配した。

声「てめえらここを何処だと思っているんだ。俺様の根城を前にしてふざけた真似しやがって。エンジン如きで世界を変えられると思うな下衆野郎」

エンジン「ぼぼ・・・あ、ん、あぁ、申し訳ございません。そこまで大きい音を発しているとは思いませんでした。ちょっと、格好つけたかっただけなんです。」

声「じゃあしい貴様に発言権は与えられていない。ずっと俺のターンだよカス」

エンジン「すんません。でも、「道」は開かれています。すべての人に。ここで何をしようと僕の勝手でしょう。」

声「んなわけあるかい。「道」はすべての人が通る場所じゃ。貴様らが踊ろうが叫ぼうが立ちションしようが俺には関係ないが、俺の道を汚すのは許さん。この道から離れた場所で騒ぎやがれ。だったらかわいいで済んだものを」

エンジン「それだって横暴ですよ。あなただけの道なんてありません。誰もが通る道なんですよ。確かに、僕は少しばかり自己主張が強かったと思います。でも、こうでもしないとみんな構ってくれないんですよ。」

声「皆に好かれたいがために「ボボボボボボ」唸る必要があんのかよ。おかげで俺は崩壊した。消しゴムでもなければ男でもない。俺は支配する。声で。貴様を。」

 男は少し疲れて「道」の側に家を構え、部屋で休んでいただけだ。その間に彼の前を様々な音が通過していった。その音を聞いて男は安らぎを得ていた。守られた部屋から聞く音はすべてが遠かった。優しく、寂しかった。
 誰かが部屋の窓を叩いて声をかけてくれたら男は立ち上がれると思っていた。些細なきっかけさえあれば力を取り戻せるはずだった。だが、待てど暮らせど音は通過していくばかりで、部屋を訪れる者はいなかった。締め切られたカーテンの奥で何が行われているのか誰も知る由がなかった。邪魔をしていいものか逡巡し、恐る恐る窓を叩いてみる者もあったが、消しゴム気分で遠音ばかり気にしていた男にその音は聞こえなかった。近ければ近いほど、その音が聞こえなかった。優しく、寂しく、懐かしいのは、遠くから聞こえる音だけだった。

 男は気付くべきだった。この喧しく煩いだけのエンジンが部屋を出るきっかけになるのを。正しく、姿勢を曲げず、堂々と戦いを挑めば、男はまた「道」を進むことができたろうに、あろうことか男は消しゴムのまま、外に出たかった。心地が良すぎて変わらないまま「道」を歩くことを望んだ。問題はあくまで「道」を進みたいと願っていた男にある。べつに部屋に籠ってそのまま過ごしていてもよかったのに、男には近くから聞こえる爆音を無視できるほど「道」について詳しくなかったのだ。

「道」は我々が考えているほど単純ではなかった。崩壊して声だけとなった男の存在は世界を轟かした。誰もが押し黙り、その声に耳を傾けた。最初の犠牲は声の周囲の無垢なる音たちだった。男とは関係のない、各々の道を歩むそれぞれの音を声は覆っていった。その狙いは初めエンジンだったが、原形を留めず声だけとなった男の狂気は無差別に音をかっさらっていく。男の部屋を中心に、音圧ですべてがなぎ倒され更地と化していく「道」と、消えていく音。

 声はやがて消えた。その中心地から20キロメートルのあらゆる「道」を瓦礫で埋め尽くし、静寂が辺りを包んだ。
 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。それに続くように人々の、生活の、音。争いは再開され、ボールが高く上がり、空を優雅に、鳥が飛んだ。

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