考えることは、忘れること。
文化人類学者、奥野克己さんの著書『人間を越えた人類学・絡まり合う生命』(亜紀書房)を読んだ。
正直、勉強不足のわたしには難解な本だったが、第4章の「ライフ」に書かれていたエピソードが妙に心に残った。
事故で意識を失ったフネスさん。回復したフネスさんは、あらゆる森の、あらゆる木の、あらゆる葉を記憶しているばかりか、それを知覚したか想像した場合のひとつひとつを記憶していた。そして、英語、フランス語、ポルトガル語など多数の言語を苦なくマスターすることもできた。つまり、フネスさんの知覚と記憶は絶対に間違いないものになっていた。
一方で、思考の能力はほとんどなかったという。
そして、こう続く。
一体どういうこと? と一瞬フリーズしたが、そういえば……今はじわじわ納得みが増している。
考えることはさまざまな相違を忘れることである。
たしかにそうかもしれない。たとえば、最近よく聞くミニマル調理法。最小限の材料と工程で、料理をおいしく仕上げるメソッドだ。鍵となる食材を見極め、じぶんの食べたい味に最大限に近づける。これは、この世に無数にある調理法をいったん忘れ、数多あるおいしいの定義もいったん脇に置き、そしてうまれた思考のように感じる。
先日の note で紹介した「経済飯」のカラーチャートも同じだ。当然ながら現実にある料理の色は一色ではない。酢豚なら、ピーマンの緑、玉ねぎの白も入っている。でも、それら全体を黒酢の餡が覆っているイメージにして酢豚=茶色と表現している。つまり、ピーマンと玉ねぎを無視したことで、カラーチャートが成立した。
マレーシアの食文化をずっと追いかけてきた。そのなかで解像度を上げるために、差異ばかりに注目してきた気がする。日本とマレーシアの差異、民族ごとの差異、人々の嗜好の差異。目に見える差異を言語化して、目に見えない差異を可視化することに一生懸命になっていた。もちろん、差異に注目するなかで、差異がないという結論になることもあった。
でも、これだけじゃ足りない。伝えるために、考えたい。考えるためには、差異に焦点をあてることと、差異をいったん忘れること、そのどちらもが大事なのだ。どちらも同じ道の上にあるから。
本を読んで思った。差異を忘れるのは、今まで積み重ねてきたものを全部ぶっ壊すような怖さがある。でもそれこそが、考える、ということなのだと。
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ボルネオ島のサバ州出身の尊敬するアーティスト集団「パンロック・スラップ」。メメトさんの作品は、詳細なタッチでこの世の命ともいえる壮大なテーマが表現されている。とても美しい。
この絵についての詳細は下記のWAU記事をどうぞ。
WAU:ボルネオ島サバ州に伝わる稲の精霊
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