かけがえのない発見

恩寵を聴くことも、火地風水の道理もごく自然のこととして納得したい。自分にとっては大きな気付きであっても、他人に伝えようと言葉にしてみると、陳腐になってしまうような、それが何故なのか。

一つ圧倒的に欠落している部分があることに気が付いた。どうしても寂しさが消えなかった。何を発見しても、何に癒されても、深い所は悲しんでいた。それがなぜか。仏教では人間の愚行の一つとして比較の心(慢心)というのがある。理解していたつもりだった。そんなことは当たり前だと。でも相も変わらず平気で比較していた。ほぼ無意識に。全然分かっていなかった。下手すると差別はいけません、というレベルでしか考えていなかったのかもしれない。何となくその違いに気付いたのは、好きという気持ちにじっくり触れてからだった。好きという気持ちを真面目に言葉に表そうとした時、毎回同じ表現はつまらないな、でも気持ちを伝えたいなと思った時に、好き、という表現以外の言葉が見つからない、修飾することによって寧ろその言葉の意味が弱まってしまうことに、不思議さを覚えた。私は、自分や他人に対して、物に対するのと同じように見ていた。わざわざ修飾し、違いを付けて、本来の価値を弱めるということを繰り返していた。人の価値はその人という以外にないことが分からずに、どんどんその価値を低めていた。目から鱗が落ちた、身震いがするほど恐ろしくなった。

自分に起こった気付きというのも、気付きという以外に表現のしようがなく、修飾すればどんどん遠ざかっていく種類のものなのだろう。逆に物はなぜ修飾されることによって価値を高めるのだろうか。機械と人の違い。好きという気持ちも、あなたという存在も、わたしという存在も、彼方からやってきたもの、恩寵であることを思わずにはいられない。機械にはきっとそれがないのだろう。つまり恩寵を受け取り、受け渡すということをしないのだろう。かけがえのない発見をした。

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