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親にしてほしかったこと

私は、子供の時からずっと孤独で今でもそうだ。ここでいう孤独とは、一人ぼっちという意味ではなくて誰にも理解されないということ。でもこれは決して悲観的な意味ではないし、卑屈になってるわけでもなく、ただそのような事実があり、そして誰でも多かれ少なかれ孤独を持っているものだと思う。

子供の頃、私の目からは私以外のみんなが私以外のみんなとだけ繋がっているように見えた。みんな示し合わせることなく少ない言葉だけで気持ちを共有して同じ方を向いている。みんな私の知らないところで打ち合わせでもしてるんだろうかと思っていたが、どうやら私は先天的に少数派であったらしい。

中学2年生の春に、お父さんがADHDの本を買ってきて読むように勧めてくれた。その本には私と同じ人の話がたくさん書いてあった。でもただそれだけだった。じゃあどうすればいいか?はその本には書いていなかった。私はそのとき、ただADHDというラベルを手にした。


きのうの朝、アメリカに住む妹から切羽詰まった感じのLINEが届いた。妹の長男はADHDの診断を受けたばかりで、診断を受ける前からその症状でよく妹を困らせていた。何でも保育所の準備をなかなかやらないからかなり怒鳴ってしまい、仲直りせずに送り出してしまって、長男の1日を台無しにしてしまったんではないかとひどく落ち込んでいた。

妹は「私が怒ってしまったせいで長男らしさをなくさせたくない。ケイナちゃんは子供のころ親にどんなふうにしてほしかった?」と聞いてきた。

(……親にしてほしかったこと……?)

しばらく考えてみたが、改めて親にしてほしかったことなんて何もないなぁ、と思った。充分愛されていることを実感していたし、それがあったから私は今の私にたどり着いたんだと断言できる。

親にしてほしかったことかどうかはわからないが、自分が30代になってからしてきた経験をもっと若い頃に出来ていたらもっと豊かな人生を送れただろう、とは思ったことがあった。そして理解者がいてくれたらどんなによかったか、とも。

私達の両親は私達を愛してはくれたが、理解をする余力はなかったのだと思う。子どもたちを食わせるために両親は毎日複数の仕事や家事に13時間以上費やし、のこりのわずかな時間を私達に割いていた。当時は6人兄弟だったので、更に関心は分散されただろう。

両親は私が学校でずっといじめられていることにも私が食事中にいきなり泣き出すまで何年間も気づかなかった。家は息苦しい学校とは別の空間であってほしかったので隠し通したかった。両親や他の兄弟には何も知らずに下らない話で笑い合って笑顔でいて欲しいから、それでいいと思っていた。

愛と理解はイコールではない。彼らは私を理解しようとはしなかったし、私もそうだった。でも、お互いがお互いの心地よい居場所であり続けるための努力をしていた。愛とはきっとそういうことなんだろう。

妹が息子が一日一日を幸せに過ごして欲しいと想っているだけで充分だと思ったので、そう伝えた。「親にしてほしかったこと」には、強いて言えば自分を理解するための手伝いをしてほしかったと伝えた。

ADHDだけではないと思うけど、あらゆる発達障害者において、健常であることを暗黙の条件とした一般的な人生の攻略方法は役に立たない。自分が何を出来て何を出来ないのかを知り、出来ることで出来ないことをカバーしてかなくちゃいけない。その生き方を一緒に考えてあげたらいいと。

私の旦那は未だに寝不足の私に「早く寝ればいいのに」などと平気で言う。それが出来ないから障害なんじゃ。旦那もまた家族と同じで私を理解しようとはしてないが、居場所である努力をしてくれている。私はそれだけで充分と思っている。

私にはおそらくもう子供は出来ないので、3人産んだ妹にはなにかを託しているきもちがある。だから今日は妹の心の支えになれて、甥と同じADHDで、孤独で良かったと、心から思った。

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