余韻
久しく書いていなかったNOTEですが、書きたいことは日々溜まっていました。大好きなものや新しいものに触れる日々で、毎日が彩りに溢れているなと感じる毎日です。
中でも、最近イラストやデザインに興味をもち、ギャラリーや個展を見に行っています。その話について少しだけ残しておこうと思います。
先日、あるアーティストさんの個展の最終日に伺いました。きっかけはInstagramの投稿です。絵の分野に詳しいわけでもないですが、なんとなく素敵な絵だなと思い、そして同じく福岡の方だと知り、個展に伺うことを決めました。
こういった知的好奇心に身を任せて生きることは、モットーに近いものなのかもしれません。よくフッ軽だと言われるものです。
1回目に伺ったときは、会場にアーティストさんと二人だったため、たくさんのお話をしました。
『絵の表情ないし感情は、全て見る側のそれを映し出す』という話を聞き、すべての絵が楽しげであったり嬉しそうであったりするのは、今の自分が楽しく嬉しい毎日を過ごしているからなのだと理解しました。たしかに、今のようなタイミングでなければ、別の表情に見えたのかもしれません。この日私の目に移る人の表情に暗い影はなく、どこか儚げではあるものの、確たる芯のある人物のように見えました。この日、アーティストさんに「最終日にも是非」というお話をいただき、こういうのも「縁」なのだと、何より好奇心が動けと言っているようで、最終日も向かおうと決意したものです。
さて、最終日については告知の段階で「音楽」との融合がある、ということでした。音楽にも疎い私ではありますが、気になることには変わりなく、何よりも「アートが混ざり合う瞬間」に出会えることが待ち遠しくてたまりません。
当日の話をすると長くなるから、と書くことから逃げることが、一番楽なのですが、なんというか言葉にできません。言葉が大好きで、言葉を仕事にしているはずですが、そんな私にもあの空間、時間を言葉にすることが難しいのです。なんと表現したら一つ一つが伝わるのか分かりません。ただ言えるのは、単に「アートが混ざり合う」だけでなく、「かき乱され」「ただ整然と並べられ」「また崩されていく」ような、でも最後には整頓されていくような、そんな時間でした。本当にこの空間と時間を説明できないことが悔しいですが、だからこそあの場にいたこと、あの時を過ごせたことに喜びを感じるのかもしれません。
ただ一つ、表現しうるものがあるとすれば、それはその場所、その時の「私の感情」です。
あの絵が私の感情を映し出したのです。
絵の表情ないし感情は、全て見る側のそれを映し出す。
まさに、これを実感した時間でした。
4人のアーティストによる音によるアートが生み出されます。その音楽に包まれるとき、私は一番大きな絵を見ていました。その顔は常に表情が変わります。本当に生きている人間のように、表情がコロコロと変わり、激動を生き抜く姿が映るのです。それは、ただ辛さや悲しみというわけではなく、喜びも安心も楽しさも安堵も安定も幸せも息苦しさも悲しみも悔しさも恨み嫉みも、、すべての表情をしていたように思います。
なんて豊かな表情をする絵なのだろう。
音楽に包まれたあの時間は、ずっとその考えが頭から離れませんでした。なんだこの豊かな表情は。自分はどのような表情をしているのかな、と日々を振り返っていたように思います。
しかし、すべてのアートの時間が閉じたとき、ふと思ったのです。
本当に豊かな表情を見せていたのは「自分の心」なのではないかと。
自分の心が揺さぶられることで表情も変化していたのだろうと思います。
果たして、これが本質なのだろうかと思えば、もしかしたら違うのかもしれません。または本当なのかもしれません。ただ、事実としてこの一週間、あの場所とあの時間を忘れることがなかったのです。現実を生きれば、あの場所とあの時間とのコントラストを実感し、アートに触れればあの場所とあの時間を懐古する。
きっとこの豊かさは、案外すぐに忘れてしまうものです。アートはそういうものだと思っています。鮮度が大切です。絵そのものではなく、この感情に鮮度があるということです。だから、このようにして記事にしました。
こんな姿もまた私なもので。
アーティストさん:kuw_さん
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