戯言と戯言。

 前回までは「源氏物語日記」を約十五日間をかけて書き上げ、そこからというものnoteを開くことも少なくなった。そんな中、「弱者の糧」(太宰治)を読み、共有したところ意外なほど反応があったので、それらについて少し触れながら考えを述べたい。



【テーマ】

①「弱者の糧」のタイトルについて

②文学における「作者の伝えたいこと」とは


 まず、先に述べたいのは、「弱者の糧」そのものがエッセイとしての文章であり、小説のようにタイトルと内容を必ずしも練りに練って作られたものとは限らないということである。調べてみたところ、「弱者の糧」は1940年頃に「日本映画」の「局外批評」欄に発表されたものらしい。コラムとしてイメージしたら良いのではないだろうか。タイトルと言っても、そのコラム題であり、その内容との関連があるとも言い切れず、ないとも言い切れない。しかし、まあ、研究ということでもないので、ここは「題は意図したもの」と仮定して検討する。


①なぜ「敗者の糧」ではなく「弱者の糧」であるのか。

 「敗者」と「弱者」を太宰はどのように使い分けているのか。

 まず、本文を引用する。


「私が映画館に行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。」


太宰はここで、「心の弱っている時」「敗れてしまった時」と続けている。つまり、当然であろうが「心の弱っている」と「敗れてしまった」は同じ意味ではなく、違う意味であると捉えるからこそ言葉を重ねたに違いない。そして、「疲れている」「心の弱っている」「敗れてしまった」を比較すると、「疲れている」という第三者の目を意識した言葉から「心の弱っている」という当人の心情、そして「敗れてしまった」という当人の現状というように、詳細になっていく様子が捉えられる。(強引な論)

 しかし、「敗者の心」、「敗者の糧」と繰り返すことにより、読み手には「敗者」の印象が植えつけられる。


「日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。」

「「映画でも見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息がひそんでいるように、私には思われてならない。弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。」


 しかし、太宰はいかなる時に「映画」を見ると述べただろうか。


「私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる」


太宰自身は「心が弱っている時」に映画を見ると述べたのである。もしかしたら、「心が弱っている状況」とは「負けたとき」かもしれない。しかし、それだけではないだろう。実際、私自身が「心が弱るとき」に勝ち負けがあることはほとんどない。実生活において、よほどスポーツ好きではない限り、勝敗を決めるような劇的な場面はほとんど存在しない。でも、人は心を弱らせる。そんなときには小説より「映画」であると太宰は述べているのではないか。つまり、「負けているとき」というよりは「心の弱っているとき」の方が、広義であるとして選ばれたのではあるまいか。


②文学における「作者の伝えたいこと」とは

 この作品は、コラムとしての要素をもった作品であったため、「語り」は「太宰である」と言えよう。いや、ここでは「語り」ですらないのかもしれない。そのため、この作品では比較的、「作者の伝えたいこと」があるのかもしれない。しかし、文学に触れる場合、誤ってはいけないことは、「作者が伝えたいこと」として捉えていることのほとんどは、「受け手(読み手)の捉えにすぎない」ということである。いかにもっともらしいとしても、それは「受け手(読み手)の捉え」の域を越えない。これは学校教育が生んだ誤りの一つであろう。「作者は何を伝えていますか」これは作者にしかわからない。

 文学においては、「作者」と「語り」、「登場人物」が存在するだろうが、この「語り」は「作者」である、もしくは「登場人物のうち一人」は「作者」であるとする間違いもおきやすい。これは恐ろしい。 .....がこれの恐ろしさについては、これだけで一稿書けそうなので、その時にでも。


 「伝える」とはよく考えてみれば、一方的な行為であるなと思う。書道の作品を書く中で、自分はこんな思いで書いていますと文章を書いていたことがある。今でもするが、それは「傲慢」なのかもしれない。「伝えたいこと」と「捉えられたこと」が異なることはそれほどに良くないことなのだろうか。「伝えるべきこと」と「知るべきこと」が乖離することは避けなければならない。しかし、ここでは「文学」「芸術」である。作り手と受け手は同じ人生を歩むわけでもない。言語化したり作品化したりして「余白」を与えることこそが面白さではないだろうか。

 とかなんとか言っているが、国語も成績をつけなければならないし、作り手には作り手の思いがあって、それを伝えたい人もいる。カテゴライズして「文学者」はこうである、「芸術家」はこうであると言いたがるのは人のよくない部分なのかもしれない。いやしかし、ここで「人」とひとくくりにするのもまた…................ジレンマである。


 二つのテーマにそって述べてみたが、先に示すように「この作品の題が検討されてつけられたものと仮定して」の話である。適当につける人も実際にはいるので、この仮定は限りなく成り立たないものであるということを最後に付け加えておきたい。所詮は、この文章そのものが無学者の戯言にすぎない。


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最後に

「敗者の糧」というタイトルにした場合、出てくるエピソードを変えたり、言葉が変わったりしないか、そんなことを考えるのも面白いのではないか、と思います。誰かの考えるきっかけになったという事実、それが私には嬉しく思います。そして、他愛もないことを書くことが楽しいなと改めて思います。文章力さえあれば、ツイッターにまとめたかったな。これは今後の課題です。            

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