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RADWIMPSのこと

25歳になる息子、21歳になって一足先に社会人になった娘、そして夫が私の大切な大切な家族だ。

パート勤務から社員へ

夫婦そろって必死になって働いていたころ、息子は一浪して大学に入学、娘は私立大学と専門学校とのダブルスクール。それに加えて住宅ローンの返済もある。

私はパート勤務から社員となり、食べ盛りの子たちの弁当作りと平行しながらフルタイムで働き出した頃だった。

そのころすでに、息子と娘は2人とも大のRADWIMPSファン。

医療事務としてキャリアを築いてきたつもりだったのに、病院勤務はまったく畑違いで、毎日、年下の後輩に罵声を浴びせられながら帰宅する日が続いていた。

子どもたちが教えてくれた

泣きはらした目で帰る母を、どんな顔で子どもたちは迎えてくれていたのだろう。

今となっては私の記憶には全く残っていない。

でも、そんなときに教えてくれたRADWIMPSの存在は、今でも私の心を支えてくれている。

さとしくんがいたころの曲に涙を流しながら反応した娘。

歌詞を一言一句間違えず耳コピしていた息子。

高校の文化祭で「おしゃかさま」を演奏した息子の友人。

「君と羊と青」を熱唱した娘の友人たち。

彼らの青春は、つねにRADWIMPSとあった。

セプテンバーさん

つらい社員勤務に私の心が悲鳴を上げて退職した。
母親のメンタルは、「強がっているだけでほんとは弱い」と彼らは気づいていたんだろう。

働かないわけにはいかず、すぐにパートとして復帰したときに支えてくれたのもRADWIMPSの楽曲だった。

9月になれば「セプテンバーさん」を楽しみにし、ここぞというときには「会心の一撃」、納得いかないときは「揶揄」「実況中継」、たそがれたい気分のときには「俺色スカイ」を聴きながら職場に通った。

さとしくん

さとしくんが居なくなって、子どもたちのRADWIMPS熱はみるみる下がっていった。

「洗脳」を聴いた瞬間に、娘が「さとしくんのドラム!」と叫んだ。

私も何が違うのか音楽的な説明は今でもできない。でも、さとしくんだ。とただ感じた。

サンプリングしたドラムの音のなかに、さとしくんがいた。

最高のサポートメンバーを迎えても、残念ながら私たちにとってはさとしくんの替わりにはならない。技巧がどうとかこうとかじゃない。
RADWIMPSのドラムはさとしくんなんだと思った。

いつかは帰る場所

前前前世と君の名はの大ヒットでRADWIMPSがメジャーになり、洋次郎のつぶやきは世代を代表すると言われるようになった。

私たち親子は、一旦そっとRADから離れた。

パリッとした格好で肩に力が入ったRADWIMPSをテレビで観るのは、とてもつらく不思議なことだった。

この前、久しぶりにテレビ番組で演奏するRADWIMPSの姿を見た。

いつもみたいに緊張している洋次郎。それ以上に力が入っているくわさん、飄々として見えて絶妙なテクニックを披露する武田さん。

洋次郎が楽しそうにダンスし始めた瞬間、涙があふれて止まらない。

やはり心を揺さぶられる歌声と音楽。

それから毎日、昔のアルバムを聴き続けている。

私たちにとって、RADWIMPSは唯一無二のバンドなんだと感じながら。












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